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選書プロジェクト 第16号

ネットプリント番号:03112985(6/22まで)

地方分権と中央集権
本当にそうかな?どうして当たり前なんだろう?
(そう考えることが学問だね)
日本って、本当にあるの?いまいるところって、日本?
(誰かがそう名付け、その範囲が日本だと皆が共通認識を持つ)
でも、誰かが名付ける以前は?
(そう、あなたの住んでいるところは、あなたの町)
私の住んでいるところは、隣町のとなり。私の住んでいるところは、海の向こうの町とおなじ、ひとの住む町。
(あなたの住んでいるところは、地球という星の、片隅だけど、まんなか)
わたしが中心で、そこから世界がひろがっている?
(だから、中央なんて、ほんとは無いんだね)(いつの間にか、国ができ、中央ができ)(中央でないところは地方と呼ばれる)
私のいるところが中央。それ以外は地方。あれ?なんかおかしい。
(誰のための「国」なんだろうね)
中央はぜんぶもっている、国はなんでも決められるそんなのは、おかしいんじゃないかな?
(おかしい、その違和感がきっと答えだよ)
うん、もっと学んでみる。どうしておかしいのか、知りたい。

小森治夫 『府県制と道州制』 (高菅出版 2007)
住民にとって最も身近な市町村と国との間に様々な機関が考えられる。一時期吹き荒れた「合併」の嵐がひと段落したいま、もう一度地方行政の新しい形を考える機会が巡ってきた。財政の効率と意思決定の正当性の両方をにらみながら、我々は柔軟な発想をするべきである。評者自身は、国に対峙する地方の団体自治という面を再考する必要を感じる。連邦的なイメージすら否定されるべきではない。


新谷行 『アイヌ民族抵抗史―アイヌ共和国への胎動』 (三一書房 1977)
アイヌ民族を政治的な側面から見ると、世界の他の先住民族と同様に、国家を持たず、他国家に支配されたひとたちである。国家を持たないということは、決して悲劇ではない。むしろ、国家に蹂躙されることが最大の不幸だとすらアイヌ民族の抵抗史を見ていて思う。地方と中央を超えた問題だ。

東浩紀 『一般意志2.0 (講談社文庫 2015)
ルソーの古典的な共同体思想と現代のネット世界の情報環境を「世論」という視点から統合しようとした。ルソーの時代には「理念」でしかなかった「一般意志」が、ITの発達のおかげで目に見える「現実」になってきた。筆者はテクノロジーを梃にして民意が真に反映できる新しい民主政治のあり方を探っている。しかし、ネットのつぶやきや「野次」は本当に熟議を補完できるのだろうか。意欲に満ちた提案であるが、問題も多い。

ロバート・D. パットナム 『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造』 (NTT出版 2001)
地域の共同体の活性化が社会資本であることを説いた本書は、イタリアの地方自治体である州の研究に端を発している。日本の道州制を論議するときに、引き合いに出されることが多い本書は、しかし、「文化的伝統」の重要さを際立たせた文脈で読んでこそ、互いに尊重しあう社会への示唆となるだろう。 

ニコラス・フィリップソン(永井大輔訳)『アダム・スミスとその時代』(白水社 2014)
搾取の経済システムはリソースの一極集中によるトリクルダウンで「皆が勝つ」と偽装したが、中央集権的発想こそ「皆が勝つ」ものと程遠いものは他にはない。本書はアダム・スミスの最新の浩瀚な評伝だが、近代経済学の父が、現在の経済・政治体制を見たなならば、これほど「等身大の人間」とかけ離れた欺瞞のシステムはないと思うに違いない。
『道徳感情論』は「利他心」に注目するのが一般的な認識だが、著者は共感の交換を通して育つ正義の感覚に重きを置き、経済活動の要となる「交換」の視点から『国富論』が著されたと見る。この源泉はヒュームの「人間学」に由来する。経験主義の一つの理想をヒュームに見出すとすれば、スミスはその現実的展開とも評せよう。フランス啓蒙主義が急進化していくのとは対照的に、スコットランド啓蒙主義はどこまでも「漸進主義」的な人間の営為である。
修辞学を重視するスミスは「社交」の感覚に注目する。言葉は他者とのやりとりの中で適切に使用されたとき、相互に心地よさをもたらす。先験的独断よりも日常生活の中で試行錯誤を繰り返し歴史に学ぶことを重視したスミスらしいが、社交を担保するためには「謙虚さ」が必要となる。「この性向から、思慮ある一般市民は、千年王国じみた新たな天地創造をもくろむよりも、生活や公共の事案への対処において小さな改善」を努めることが説かれる。「自分の属する社会をよくしようとする、われわれの欲望」に従い一歩一歩漸進していくその生涯こそ、現在参照されるべき歩みである。

大城立裕 『小説 琉球処分』 (講談社文庫 2010)
沖縄県が誕生するまでを琉球王朝の視点から描いた小説。ここで描かれる琉球王朝の人たちの憤りと日本への反感、そして中国という隣国への感覚は、日本本土に暮らしていては、なかなかわからないものである。この小説を片手に沖縄を訪れてみてはどうだろう?そして、そこに佇んで読み返してみよう。

平川克美『グローバリズムという病』(東洋経済新報社 2014)
精査なきまま喧伝されるグローバル○○「いい加減ウンザリしませんか?」著者はグローバル信仰とその起源を追跡するのは、国家と会社の飽くなき自転車操業での幻灯がその実体である。都合のよい勝負の二元論と自己責任こそ人間と地域分断の元凶だ。

梅棹忠夫 『日本探検』 (講談社学術文庫 2014)
日本列島に厳として存在した地域ごとの多様性を、世界を探検する民族学者としての梅棹忠夫が見る。その視点からすると、多様性と同時に文化的な意味での多民族地域として列島を捉え直す必要を感じる。大阪吹田にある国立民族学博物館の創立に携わった氏の面目躍如たる作品である。

後藤竜二 『幕末・南部藩大一揆 白赤だすき小○の旗風』 (新日本出版社 2008)
小◯は「こまる」と読む。南部藩の圧政に困って、声を上げた岩手県三閉伊地方の農漁民の、苦悩と強い意志に満ちた「人間としての」軌跡を平易な語り口で追っていく。第17回日本児童文学者協会賞受賞。親子で読みたい本。読んだあとは、ぜひ岩手県田野畑村民俗資料館の一揆再現展示へ。

柳田国男 『遠野物語』 (角川文庫 1955) 日常生活 意味と物語 郷土 地方には地方の意味世界がある。標準語、「日本史」、戦前の中央集権、戦後の産業都市化、そして首都圏一極集中と少子高齢化・・・。地方は抑圧されるか、搾取されるか、利用されてきた。もちろん、地方には地方のエゴもある。しかし、もう一度、地方の意味の世界を学ぶ必要を感じる。柳田国男は、その最も良い教科書になるだろう。

村雲司 『阿武隈共和国独立宣言』 (現代書館 2012) 菅原文太氏が推薦文を寄せた小説。原発事故や国の圧迫に耐えかねた福島の住人たちが、国に捨てられるのなら、自分たちが国を捨ててやろうと立ち上がって、やがて日本からの独立を果そうと闘いを始める。空想小説ではあるが、背景には深刻な原発事故被害や現政権の傲慢が描かれる。

橋本一夫『幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで』(講談社学術文庫、2014)
戦争で開催中止になったことはあるが、夏季オリンピックの開催都市が自発的に大会を返上したのは第12回東京大会(1940年)以外にない。本書は招致から返上に至るその経緯を克明に描き出す。日本の侵略主義が開催ボイコットに直結するが、肝心の競技施設を準備せず開催意欲だけ先行した立候補が仇になる。
日中戦争の拡大で競技場建設がストップし、開催か中止かの岐路に立たされる。「たかがスポーツの大会」としか考えぬ軍人たちはプロパガンダに利用したナチス以下の頭脳とも言えよう。
「ベルリン大会が真の国際平和と親善になんら貢献しなかったように、きたるべき東京大会もオリンピック本来の目的達成に役立つことはないだろう。さらに、米国選手がベルリン大会に参加したことがナチの宣伝を助ける結果になったのと同様に」東京大会でも利用されるとニューヨーク・タイムズは伝えている。
オリンピックとは政治との闘いの歴史であり政治そのものであるが、「平和の祭典」という看板もそれ以上に「現実」である。20年に東京開催を控える現在、政治に翻弄され「平和の祭典」を理解できなかった苦い過去を振り返ることは意義がある。東京集中と平和と繁栄とは程遠い現代日本はオリンピックをどのように開催するのであろうか。

津田直則『連帯と共生 新たな文明への挑戦』(ミネルヴァ書房、2014)
営利の競争システムだけが生活を豊かにすることが可能なのか。著者は、協同組合やNPOに焦点を当て、「競争」の替わりに「連帯」を提案。先進事例を紹介しながら、「連帯」が効率化を促進することを論証する。人間性の危機・地球環境の危機の原因も競争に起因する。目から鱗とはこのことか。

杉田敦編『連続討論「国家」は、いま 福祉・市場・教育・暴力をめぐって』(岩波書店、2011)
「企業という組織形態が能率的ですぐれたものと見なされる一方で、政府が非能率の極みとして侮蔑されている時代」だが、果たしてそうなのか。政府の責任放棄と民間万能論を退け、そのイメージを更新することで国家は本来の役割へリソースを注ぐべきではないか21世紀における国家の役割とは何か。国家と市場、そして市民社会の関係を、福祉・市場・教育・暴力という観点から多様な専門の論者たち未来を構想する一冊。

江口克彦 『地域主権型道州制―日本の新しい「国のかたち」』 (PHP新書 2007) 道州制 地域主権 参議院 道州制解説の定番。国、道州、基礎自治体の三階層にわけて、道州から参議院議員を、基礎自治体から衆議院議員を出すことを提唱している。しかし、中央集権の弊害を排し、地方の意見を政治に反映させるには、これらが北東アジア共同体の下部構造となって、はじめて奏効するであろう。




選書プロジェクト 第15号

ネットプリント番号:75299773(6/8まで)

牧口常三郎・戸田城聖(補訂) 『価値論』 (第三文明社 2014)

創価思想の原点である「価値創造」の原理を説いた書。「利美善」すべての価値は生命という共通の根底から創造される。幸福とは価値の創造であり、哲学は生活指導の原理でなければならない。「利」の価値を導入することで、新カント派を越えてプラグマティズムをも包摂する体系が構想されていた。牧ロの生活思想は戸田城聖によって現世主義の宗教哲学へと接続される。


菊池省三 『挑む 私が問うこれからの教育観』 (中村堂 2015)
授業のありかたについて、「単なる知識の伝達ではいけない」と喝破したのは牧口常三郎であった。それでは牧口がそれに代えるべきだと言う「知識する」とは何か。対話とコミュニケーション力を重視した考える授業を展開する菊池省三氏の授業法に、その答えを見出す思いがするのは私だけだろうか。

菅野仁 『教育幻想 クールティーチャー宣言』 (ちくまプリマ―新書 2010)
著者は社会学者でゲオルク・ジンメルの研究者として有名。教育は本来「非対称的」な人間関係であり、「力」の行使を避けられない。著者は人柄志向の「心の教育」偏重に対して事柄志向の「行いの教育」の意義を説き、両者のバランスを重視する。子どもたちは、自らの自由を守りながら社会で生き抜くために、「欲望統御の作法」を身につけるべきである。教師は熱意を持ちながらクールに問題解決を図るべきである。極めて現実的な教育論。

ジャン=ジャック・ルソー 『エミール(上・中・下)』 (岩波文庫 2007)
教育思想の古典中の古典。しかし、描かれた状況は特殊で、男の家庭教師が男子を育てる物語。テーマは自然教育。発達の段階に応じて、子どもの自発的な感性を伸ばし、育てる側はそのための環境を整える。リベラルな教育論として知られるが、ポイントはむしろ距離の置き方にある。決して友達関係ではない。本書の問題は、女子教育にあるだろう。『エミール』を補完する『ソフィー』が必要な時代になってきた。

村尾行一 『国家主義と闘った牧口常三郎』 (第三文明社 2002)
著者は創価思想の源流を牧ロの反帝国主義に見る。牧ロの平和主義と人間主義は、大正デモクラシーよりも早く、今日の人権思想を先取りしていた。著者は牧ロの逮捕後の調書にも注目する。牧ロは厳しい取調に対して堂々と反国家主義を貫き、獄死した。牧ロの「空間的連帯」は今日の公共圏と環境の問題に、「人道的競争」はグローバル資本主義の問題に繋がっている。牧ロの思想と生き方は、まさに創価思想の原点である。

灰谷健次郎 『兎の眼』 (角川文庫 1998)
子どもと読みたい本。教育とは子どもと向き合うことである。この姿勢を貫いていったときに見えてくる世界がある。灰谷健次郎の児童文学には、そうした明るい期待と同時に、それを阻害する社会的要因の重々しさが迫ってくる。これは教育を志す人を勇気づける書でもあり、覚悟を求められる書でもある。

鎌田慧 『教育工場の子どもたち』 (岩波現代文庫 2007)
教育が無個性や従順を目的とする時、何が起きるのか。現実に「管理教育」と呼ばれていた学校運営を行っていた学校が日本全国あちこちにあった。それを丹念にルポルタージュした本書は、読み進めていくうちに背筋が寒くなる思いがする。教育は矯育でも強育でもない。人の可能性への限りない信頼である。

壺井栄原作・木下恵介監督 『二十四の瞳』 (松竹ホームビデオ 2006)
瀬戸内の明るい風景と屈託ない子どもたち。ほっとする光景が繰り広げられる映画ではあるが、背景となっているのは戦争と、そして貧困によって未来を奪われる子どもたちの悲惨である。どんなに教育に情熱を燃やす教育者がいようと、戦争と貧困によってすべてが台無しにされる。これは反戦映画だ。

アルフォンス・ドーデ 『最後の授業』 (ポプラポケット文庫 2007)
独仏国境付近の学校、今日はフランス語を教えてよい最後の日。明日からは国境変更、ドイツ語で授業しなくてはならない。しかし、本来彼らの言語はどちらでもないアルザス語である。フランスの愛国美談として語られる事が多いこの物語は、教育が国に縛られ、民族の自立をも阻害する悲劇を描いている。

新田次郎 『聖職の碑』 (講談社文庫 2011)
教育における理想は、果たして誰のためのものか。鍛錬主義に基づく無謀な学校登山によって奪われた命は、「がんばれ」を正当化する教育の理想のもとで、事故ではなく美談化されていく。こうした人権感覚よりも美意識を優先させる社会が、再び到来しつつある。子どもを理想の犠牲者にしてはならない。

ヘッセ著/伊藤貴雄訳 ヘルマン・ヘッセ全集〈4〉より 『車輪の下』 (臨川書店 2005)
ありきたりな教育制度への批判にとどまらず「教育が大人のエゴイズムの道具と化し、そればかりか国家の奴隷に成り下がっている」ことへ警鐘を鳴らした書ととらえた訳者あとがきの視点も新しい。
教育が人間を押しつぶす車輪となるか、陶冶された人間へと誘う車輪となるか――。
「残酷な社会から屋根となり児童たちをかばうことが出来るのは教師である」との創価教育の父の言とも響きあう一書。           

伊奈かっぺい DO! ライブ晩 にぎやかなひとりごと~札幌編~ CD>』 (日本コロムビア 2012)
親バカという言葉がある。むしろ温かみ感じさせる言葉である。子どもに託す願いや思いを正直に語った伊奈かっぺいの語り口は、津軽弁の暖かさとあいまって、聴く人の心をじんわりと癒やしてくれる。これこそが教育の心ではないだろうか。

三谷太一郎 『人は時代といかに向き合うか』 (東京大学出版会 2014)
「『人』は歴史を書くことによって、あるいは歴史を読むことによって、すなわち『時代』を認識することによって、はじめて『時代』を超えるのである」。日本人はさまざまな「戦後」を検討すること=時代と向き合うことを怠ってきた。本書はその怠慢をありありと浮かび上がらせるが、その負荷が最も集中するのが教育である。著者は吉野作造や南原繁といった「時代の超え方」をいきいきと描くが、それは学び・育みの美しい見本と言ってよい。

池田晶子 『知ることより考えること』 (新潮社 2006)
知識が増えることは悪いことではない。しかしそれは学び考えることの本質ではない。「考えるとは、本当のことを知るために考えるという以外ではあり得ない」--。パッケージ化された教育のなかでいかに自ら考え得るに至るのことができるのか、考えることを失い、感性が鈍磨した現代において、本書はその教科書といってよい。

国民文化研究会・新潮社編 『小林秀雄 学生との対話』 (新潮社 2014)
「本当にうまく質問することができたら、もう答えは要らないのですよ」。学生との対話はさながらソクラテスの対話編である。講演と対話に通底するのは、小林の柔軟な思考態度である。対立的に捉えることを退けながら、矛盾の同居の意義を説き明かす。ベルグソンへの言及も多く「直覚を分析」したことを評価するが、小林の本質把握には瞠目する。生きた渾身の批評ここにあり。

三谷太一郎 『学問は現実にいかに関わるか』 (東京大学出版会 2013)
学問は現実にどう関わるべきか--。日本政治思想史の碩学が、吉野作造、蝋山政道、長谷川如是閑、南原繁、岡義武等々先人の知的格闘を通して、学問の意味を問う優れた労作である。インプットを学習とすれば学問の本質的特徴とは未知なるものの探究だ。それは現実との緊張関係なしには遂行し得ない。本書は近代日本の出発点(福澤諭吉)から始まり、政治思想史の巨人の格闘を追跡するなかで、その営みを明らかにする。
 著者は「現実」と「現在」の混同を諫める。学問とは、多様な側面をもつ現実の構造を捉えることだ。現在への惑溺は状況判断を曇らせる。それに抗う知的誠実さが学問の自律性と任務といってよい。そして生活世界との往復なしにはあり得ない。
 謦咳に接した著者の敬愛に満ちた丸山論は、その姿を豊かなものへと更新する。と、同時に著者の史的追跡は、東大の良心の系譜を明らかにするものでもある。「権力崇拝を退けよ」。その試練を引き受けることが課題である。若い学生にこそ読んで欲しい一冊である。

原作:古舘春一/監督:満仲勧 『ハイキュー!! (集英社/Production I.G. 2012)
「翼がないから、人は飛び方を探す」
落ちた強豪、飛べないカラスと呼ばれるかつての高校名門バレー部。
古豪復活を賭けた部員それぞれの成長を描く。
迷わず、ただまっすぐに飛べばいい――青春時代そんなひと時もあっていいと思わせてくれる高校部活物の快作。

宮崎幸江編 『日本に住む多文化の子どもと教育 ことばと文化のはざまで生きる』 (上智大学出版 2013)
本書は、日本で育つ多文化の子どもたちの持つ「ことばの力」と「多文化アイデンティティ」の形成をどう支えていくのか、読者と共に考える論集である。海外に行かなくても「文化的多様性」は身近に存在する。第1部で多文化の子どもの母語とアイデンティティの問題に焦点を、第2部では多文化共生と教育の関係について論じる最後に執筆者との対談を掲載し、多文化の子どものもつハイブリッドなアイデンティティを社会で活かす方途を辿る。「多文化を持つ人たちと接するということが自分の枠を外すことにつながる」(宮崎)。編者もこの研究を通して考え方やものの見方が変わったという。学びは学校の中に閉じ込められたものではない。このことは日本の子どもにとっても大切なことであろうか。

平田オリザ『新しい広場をつくる 市民芸術概論綱要』(岩波書店、2014年)
全てが市場原理に委ねられる現在だからこそ「芸術に関わる者は、なぜある種の芸術分野に公的な支援が必要なのか、より明確に市民に示さなければならない」。芸術の公共性を一新する快著だが、教育においても同じである。文楽は「面白くない」(橋下徹)。しかし『少年ジャンプ』が面白いのであればそれ「だけ」を読んでいればいいのだろうか。人間の力の源泉は歪な二元論的市場原理で測れるものではない。「文化の自己決定能力」にこそ存在する。

土屋敦『はじき出された子どもたち』(勁草書房 2014)
「理想の家庭」像が子供をはじき出す変遷の経緯を描く「社会的養護児童と「社会的養護児童と『家庭』概念の歴史社会学」(副題)。
間引きや人身売買など子供の問題は昔から存在する。高度経済成長以後、子供の数は減少したが、保護施設は減っていない。戦後の浮浪児から育児放棄の児童保護は、社会からの排除から家庭内での排除への「保護されるべき子ども」概念の変容を意味する。
たしかに「はじき出された子ども」たちを“護る”必要は存在する。しかし、理想とされる社会と家庭が「はじき出された」子供を生み出してきたのがその経緯であろう。「子供を護る」のは何のためか。重厚な論考に考えさせられるところが多い。

三木清『読書と人生』(講談社文芸文庫、2013年)
本書は、三木自身の読書体験を元に、読書の方法、哲学の学び方を縦横に語るアンソロジー。「読書というのは、じぶん以外の人の書き物にふれるなかで、じぶんがうち砕かれる経験」とは鷲田清一氏(解説)。その経験=教育を通して人間は人間へとなりうるのである。政治と文化は対照に位置する。しかし、隔絶した教養主義も、政治主義も人間の現実ではない。

福沢諭吉の『学問のすゝめ』(岩波文庫、1978年)、丸山眞男『福沢諭吉の哲学』(岩波文庫、2001年)を読む。
昨今、教育再生をめぐる議論で「人文より実学」で「即戦力」を大学教育に求めるムキがありますが、いわば実学の元祖といってよい福沢諭吉ならば、今の状況をどのようにとらえるのでしょうか。丸山眞男の指摘に寄り添いつつ、『学問のすゝめ』を読んでみました。
福沢諭吉は「専ら勤むべきは人間普通日用の近き実学なり」として空疎かつ迂遠な漢学や有閑的な歌学に対して実学を対置しましたが、「若し福沢の主張が、単に『学問の実用性』『学問と日常生活との結合』というただそれだけのことに尽きるならば、……斬新なものではない」と丸山眞男は言います。
「学問の日常的実用を提唱」「学問を支配階級の独占から解放して、之を庶民生活と結びつけた」“東洋的な「実用主義」”は山鹿素行、石田梅岩に見られますから、そこに福沢の独創性はありませんし、「内在的なものの発展はあっても、なんら本質的に他者への飛躍、過去との断絶は存しない」とも言えます(丸山眞男)。
では、福沢の実学傾注の「真の革命的転回」意義とはどこにあるのでしょうか。丸山真男によれば次の通りです。即ち「学問と生活との結合、学問の実用性の主張自体にあるのではなく、むしろ学問と生活とがいかなる仕方で結びつけられるかという点に問題の核心が存する。そうしたその結びつきかたの根本的な転回は、そこでの『学問』の本質構造の変化に起因」する、そこに福沢の独創性があるのではないでしょうか。
「東洋社会の停滞性の秘密を数理的認識と独立精神の二者の欠如のうちに探りあてた」福沢は、学問の中心的位置を、アンシャン・レジームの学問の中核である倫理学より物理学へ移します。しかし、これは倫理や精神の軽視ではなく、「近代的自然科学を産み出す様な人間精神の在り方」を注目しますが、これは単なる学問の交替ではなく、精神の問題と言ってよいでしょう。
「環境に対する主体性を自覚した精神がはじめて、『法則』を『規範』から分離し、『物理』を『道理』の支配から解放するのである」。社会秩序の基礎付けを自然とのアナロジーで非合理を容認するのが東洋社会の特徴ですが、非合理を退けて人間や社会を認識するためには、個人が社会的環境と離れて直接自然と向かいあう意識から出発する他ありません。
「物ありて然る後に倫あるなり、倫ありて然る後に物を生ずるに非ず。臆断を以て先ず物の倫を説き、其倫に由て物理を害する勿れ」(『文明論之概略』)。「社会秩序の先天性を払拭し去ることによって『物理』の客観的独立性を確保」(丸山)、そのことで近代精神(独立自由の精神と数学物理学の形成)がはじめて確立します。
倫理を中核とする実学は「生活態度を規定するものは、環境としての秩序への順応の原理である。自己に与えられた環境から乖離しないことがすなわち現実的な生活態度であり、『実学』とは畢竟こうした生活態度の修得以外のものではない。そこでいわれる学問の日用性とは、つきつめて行けば、客観的環境としての日常生活への学問の隷属へ帰着する」(丸山)。
では福沢の実学とはどういうものでしょうか。
「如何なる俗世界の些末事に関しても学理の入る可らざる処はある可らず」(「慶應義塾学生諸氏に告ぐ」)。
東洋社会の支配的エートスであり、その実学の中心である日常の重力との「妥協」ではなく「克服」こそ福沢の「実学」の核にあるものです。
その理念から「福沢は数学と物理学を以て一切の教育の根底に置くことによって、全く新たなる人間類型、彼の所謂『無理無則』の機会主義を排してつねに原理によって行動し、日常生活を絶えず予測と計画に基いて律し、試行錯誤を通じて無限に新らしき生活を開拓してゆく奮闘的人間」(丸山)育成を志したのが福沢諭吉であり、その学問といってよいでしょう。
福沢諭吉は「日本のヴォルテール」(丸山)として啓蒙思想の代表といわれます。しかし単なる封建批判の文明論とは異なる独自の思惟を秘めており、それは真性のプラグマティズムといってよいと思います。今、福沢が教育における「実用」の実際を参照するならば、どのように反応するでしょうか。それは権力に対する馴致への惑溺と映るに違いありません。

J.S.ミル(竹内一誠訳)『大学教育について』岩波文庫、2011年。
19世紀中葉、専門知と教養知の大論争を背景に、両者の有機的統合を示唆したミルの講演を収録したもので、真理に基づく行動の必要を説かれている。古典教育がなぜ必要なのか。それは、歴史を原典で学ぶことで、古代を学ぶだけでなく、今生きている社会に掛けさせられている「眼鏡」への自覚がもたらされるからだ。
教養教育は「包括的な見方」と「結合の仕方」「(諸科学の)体型化」を促す。この原理を身につけることで、全体人間として専門知が生きてくる。加えて「美学。芸術教育」、「道徳教育」がそれを補完する。
さて、全体知としての「詩的教養」を毀損するのものは何か。「商業面での金儲け主義」とミルは言う。世界の工場・イギリスの東インド会社の審査部長をつとめたミルのこの指摘は重く受けるべきであろう。これこそ人間性を破壊するものに他ならない。