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選書プロジェクト 第12号

ネットプリント番号:10546410

「サタン」の魔力に抗う

この度の震災で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げますと共に、1日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
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私の祖母は86日のあの日、原子爆弾の業火に焼かれ、奇跡的に生き延びた方です。一緒に疎開していた友人は全員即死、自らも半身に大火傷を負います。老いた肌に広がる桃色の生々しいケロイドは、鮮明にその地獄を伝えていました。不治の半身付随を抱えながら、強く強く生き続けた彼女の逞しさと怒りは、私のDNAに深く刻まれています。
「戦争は、いけん。」
この一言に、どれだけの苦しみが込められていることでしょう。その想像力が欠けた指導者は、再びその惨禍を引き起こしかねないと憂慮します。昨年広島で、安倍首相は被爆者に対し、非核三原則の厳守を約束しませんでした。そして今年41日の閣議決定にて政府は、「核兵器の使用は憲法上禁止されていない」との趣旨の閣議決定をしました。彼は今、何処を目指し国を導こうとしているのか、私たちは監視の目を緩めてはならないでしょう。
戦後、核兵器や原子力を巡って、数え切れない事件と論争が広がりましたが、権力者の言い訳は非常にシンプルです。「戦争の早期終結ができたから、核兵器は有用だ」「核抑止が働くから、核兵器は有用だ」「原子力は夢のエネルギーであり、有用だ」等々。
今回の選書では、それらの欺瞞を一つ一つ指摘していこうと試みました。核の魔力を「サタン」と表現し、あえて「絶対悪」と断ずる我々の先師の思想にも肉薄しながら、現代を読み解いていこうと思います。

池田大作・D.クリーガー『希望の選択』(河出書房新社、2001年)
「核兵器のない21世紀こそ人類の希望」……。その理想は可能か。文学と思想が織りなす二人の対話はその未来を展望する。本学創立者との対談者・D.クリーガー博士は、ベトナム戦争での良心的兵役拒否から平和活動をスタートし、現在、核時代平和財団所長を務める。地球市民として生き残るために必要なことは、核兵器をいかなる理由があろうと容認してはならない倫理だ。人間として何が大切なのか。それは「才能ある畜生」に堕してはならないということだ。これは科学者や専門家だけに限定される問題ではない。

<本文からの抜粋> 
仏典には「才能ある畜生」という言葉がありますが、これは、人間としての良心を失い、己の利欲を満たし、名声を得るために、自らの才能を利用するような者を意味しております。古代ギリシャの“西洋医学の父”ヒポクラテスは、医術を施す者に対して厳しい倫理観を求めましたが、それは人間が、時として「才能ある畜生」に陥ることの危険性を、見抜いていたからに違いありません。
 かの有名な「ヒポクラテスの誓い」においては、医師は、その立場や知識を、自らの利益のために悪用するのではなく、あくまでも、節度と自己抑制をもって、「患者」に接することを教えていますが、その根本は、自身の欲望や利己心を超克した「人類への奉仕」の精神にあるといえるでしょう。
 これは現代の科学・技術者のみならず、知的訓練を受けたすべての者が、襟を正して学ぶべきものです。198199頁。

加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書、2003年)
戦争は「不法行為」であり、それ故にこそルールが必要である。戦争こそは、筆者の「応用倫理学」の中心テーマ。原爆投下を含む空爆の非人間性を突く。その一方、カントの平和論における国家の人格化を批判する。共和(民主)政国家は戦争に抑止的だという考え方にも疑問を投げかける。

秋元健治『原子力推進の現代史』(現代書館、2014年)
第五福竜丸が被爆した1954年、国策として原子力推進がスタートした。本書は半世紀以上続く原子力推進の歩みを、利権の一大システムの構造分析を通じて明らかにする。「核の平和利用」(アイゼンハワー)との売り込みを読売新聞社主・正力松太郎が受け、被爆国の平和利用を喧伝した。しかし原子力の制御不可能な危険性の前には、平和利用など幻想にすぎない。幻想は「秘密。独占・依存」によって自己増殖を続けた。危険ゆえの責任回避構造は、原子力ムラに限定される落とし穴ではない。

日野 行介 『原発棄民 フクシマ5年後の真実』(毎日新聞出版 2016年)
衝撃的なタイトルにすべてが込められている。そう、原発事故は国とマスコミによって葬り去られようとしている。被災者もすでに平穏な生活に戻りつつあると彼らは思わせようとしているようだ。そんな欺瞞を暴くのが本書。原発事故は終わっていないどころか、これからどれくらい続くかわからない。

山下正寿『核の海の証言 ビキニ事件は終わらない』(新日本出版社、2012年)
第五福竜丸以外にも水爆実験に遭遇した日本船の乗組員が補償も受けないまま病に倒れていった。高校教員の著者は、八〇年代半ばから、その実像に迫ろうと教え子らとともに聞き取り活動を継続、本書はこの活動のまとめである。「いつの時代もしわ寄せが来るのは底辺にいる者」と遺族。誰かを犠牲にすることで得られるのがこの国の「繁栄」である。享受者はその事実を無視しながら……。

中沢啓治『はだしのゲン』(汐文社、1993年)
戦争と暴力の頂点である原爆の虚しさ、そして暴力へ修練していく人間の愚かしさを活き活きと描く中沢畢生の大作。広島の原爆投下前後を活写する漫画だが、近年、歴史修正主義者の手により図書館での閉架申請が相次ぐゆえに、推薦しておきたい。暴力で問題を解決しようとする人間は、欺瞞の言葉と暴力で全てに抗してくる。第二次世界大戦も原子力の平和利用も構造は全く変わらない。

秋葉忠利『新版 報復ではなく和解を -ヒロシマから世界へ』(岩波現代文庫、2015年) 
広島市長を務めた秋葉忠利氏の活動は、市民による平和外交のモデルであり、都市外交のモデルでもある。本書は1999年から2013年まで各地で行った講演を収録したものである。秋葉氏は被爆者の声を世界に伝えるとともに、グローバルな人間関係を築く活動をしてきた。その目的は、和解の思想を広めることである。右の国家主義と左の政治イデオロギーの狭間で、平和主義が窒息しないために、秋葉氏のような市民活動が必要である。旧著に原発事故後の講演を追加し、東日本大震災と原発事故以後の核技術が孕む問題にも言及している。

肥田 舜太郎, 鎌仲 ひとみ『内部被曝の脅威』(ちくま新書 2005年)
広島では核爆弾が大量のヒバクシャを生んだ。現代の戦争は核爆発なきヒバクシャ大量生産の様相を呈している。劣化ウラン弾などによる内部被曝である。広島そしてイラクの戦争被災地の人々の被曝を克明に記すことで、非人道的兵器である「核」と放射性物質が身近にある社会の怖さが浮き彫りになる。

山崎正勝『日本の核開発:19391955(績文堂、2012年)
 戦時下日本の旧陸海軍の原爆開発から1955年の原子力基本法成立へ至る日本の核開発の歴史をたどる一冊。開発から挫折、平和利用で導入へという経緯が詳しい。第1部は戦前・戦中編。発端と研究の動向と原爆の投下とその調査。第2部は戦後編。合衆国による占領と核開発の凍結。第五福竜丸事件と「平和利用」への筋道を明らかにする。 戦後における原爆投下の正当化論の生成過程や「周辺諸国からみた日本の核問題」は新鮮な観点である。。日本への原爆投下を韓国ではどうみているか。日本からの独立、そして朝鮮戦争と北朝鮮の核開発と連動しているが、省みられなかった点だけに考えさせられる。 執筆中に東日本大震災を経験した筆者の筆致は、全体として抑制のとれたものであり、評者は好感を抱く。通例、原水爆の開発は「核開発」、原子力の開発・利用は「原子力開発」と区別される。しかし、筆者はあえて「核開発」の用語で両者をまなざすことも留意しておきたい。史料・資料に裏打ちされた歴史の証言となる一冊である。

大熊信行『日本の虚妄』(論創社、2009年)
大熊は、「ただ原水爆そのものだけを拒否しようとする」ならばむしろ有害であるという哲学者カール・ヤスパースの言葉を引用する。国家の現実と人間の本性に対する洞察を欠いては、科学技術が国家悪に奉仕する動きを止められない。大熊は1970年代当時、原水爆禁止運動のイデオロギー的な体質を厳しく批判した。核廃絶は、国家悪の克服にかかっている。そして国家悪の克服は、人間悪の克服にかかっている。大熊は、「政治の克服」を説く。人間が人間を支配するという事態を克服しない限り、仮に核兵器の恐怖が去っても、新たな恐怖を生み出す可能性をなくせない。現在のテロの拡大がそれを示している。

木村朗・高橋博子(編著)『核時代の神話と虚像 -原子力の平和利用と軍事利用をめぐる戦後史』(明石書店、2015年)
浩瀚で筆者も多士済々の論文集。近年ではまれな、総合的な核問題論集である。言及されるべきでありながら言及されることが意外に少ないのだが、ここでは福島などの原子炉が攻撃されるという軍事的なリスクにも扱われている。「核の平和利用」に隠された国家戦略や「グローバルな被爆者」といった興味深い論点も。

レイモンド・ブリッグズ『風が吹くとき』(あすなろ書房 1998年)
政府の広報を信じて、最後までなにがあったのかわからずに死んでいった老夫婦。核戦争の恐怖を、淡々とした日常の哀歓と美しい英国の田園風景の中で描く。映画化され日本語吹き替え版DVDも。森繁久彌の落ち着いた声や、幸福感に満ちたアニメーションのタッチが、見えない被曝の恐ろしさを際立たせる。

宮崎駿『風の谷のナウシカ(漫画) (徳間書店 2003年)
巨神兵を「核技術」、腐海を「放射能汚染された場所」の象徴として読むことができなくもない。腐海の底は浄化された空間が広がっている。『ナウシカ』的に読むなら、放射能汚染さえも計算された、むしろ望んで作られた現象で、私達は人工生物ヒドラの手の内で踊り続ける、ゆっくりとした死を迎えるべき種なのかもしれない。さしずめヒドラは世界の流れを制御していると思い込んでいる自称・高等人種だろうか。我々の世界にはまだ姫様・ナウシカが登場していない。

丸木俊『ひろしまのピカ (記録のえほん 1) (小峰書店 1980年)
原爆の図丸木美術館を訪れたことはありますか。学校の社会科見学で恐怖に打ちのめされた人も多いかも。直視できない人もいるでしょうね。このCDは、視覚によってではなく、こころに届く声によって被曝の痛ましさと怒りと、そして平和への切望を、目を閉じて聴くことが出来ます。ぜひ聴いてみて。

海渡 雄一 『原発訴訟』(岩波新書 2011年)
司法の独立性を疑うに足るだけの実例がここにはある。原発労災はすでに明白な人権侵害であり、殺人であるとまで言って良いであろう。原理力政策を弁護士の立場から訴訟を通して見た本書は、訴える側の当然さと、その当然が通らない司法の政治性の相克の歯がゆさを如実に映す。

NHK「東海村臨界事故」取材班『朽ちていった命:被曝治療83日間の記録』(新潮社 2006年)
被曝の怖さは、染色体が破壊されて日々生産される健康な細胞が作られなくなることで、体全体がまさに「朽ちていく」ことにある。治すことの出来ない病、その朽ちていく人体をなんとか生き長らえさせようとする医療人。東海村という平和利用のはずの原子力研究の場ですら起こる悲劇を直視させる力作。

若杉 『東京ブラックアウト』(講談社 2014年)
原発をやめられない政治構造とは何か。産業界と官僚の癒着によって権力に守られた利権の構造がここまで明らかになった本は他にない。どんなに自然災害があろうと再稼働に踏み切ろうとする原発とは、人間不在の政治と産業のありかたをそのまま映している怪獣に他ならないであろう。

若杉 『原発ホワイトアウト』(講談社 2013年)
小説の形をとることの利点は、生々しい現実のどす黒い欲望を、架空のものとすり替えることで、名誉毀損を免れ、歯に衣着せぬ暴露ができることであろう。それほどまでにこの本は真に迫っている。もし、ここに書かれていることが本当なら、既に日本は民衆が産業の奴隷になった独裁国だ。

古賀 茂明 『原発の倫理学』(講談社 2013年)
原発の危険性は、科学的側面を遥かに超えた「倫理的」な問題であるとの指摘は、人権を尊重する視点から見ると、当然のことだと気づくはずだ。それが経済性や国力といったまやかしの幸福基準をものさしにして考えることが、いかに狂っているかを改めて気づかせてくれる。必読の書。

木村 , 高橋 博子『核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』(創元社 2016年)
アメリカがなぜ核兵器をもって世界を支配しようとしていたのか。戦後史を丹念に紐解くことで、見えてきた核による世界戦略がある。いま、日本はそのわだちをなぞって、アメリカ同様の世界大国を目指そうとしている。それがテロを産み、経済格差を産み、不幸を拡大していることを私たちは知っている。


選書プロジェクト 第11号

ネットプリント番号:42021276(4/14まで)

働くということ
働くこととは、はたを楽にすることです。
新卒入社した会社でそう言われました。
2008年、飲食店に新卒入社した方が3ヶ月で過労自殺に追い込まれました。そのニュースを見た時衝撃を覚えました。しかし、通勤時間帯の人身事故を思い出せば、彼女は何も特別な人ではありません。ニュースにならない、何万人もの自殺の上に成り立つ社会。次があなたの大事な人でない保証はどこにもありません。
上司は「徹夜仕事が当たり前で、仕事は空き缶と山盛の灰皿の片付けから始まったし、月に3日しか家に帰れなかった、だから貴方達はましだ」と、入社したばかりの私に語りました。
そうかもしれません。
けれどもそうして、苦労を語り、押し付けて、同じ苦労をさせ、誰かを苦しめる、そんな社会は幸せなんでしょうか?
子育てに関わろうと思っても寝顔しか見れないお父さん。
働きに出たいけれど、保育園に入れられない、その状況を変えてほしいと願って声を上げたお母さんたちは、子どもを守るための抱っこ紐にお金をかけたことを非難されました。
そんな足の引っ張りはやめて、はたも自分も楽にできる働き方を私は模索していきたいです。
今回の選書が、働くことについてあなたが考えるきっかけになれば嬉しいです。
「ことに昔から ′′労働′′とか ′′勤勉′′は日本民族の一つのよき特性としてあげられているわけですが、 近代産業の巨大なメカニズムのなかにとりこまれ、非人間的なかたちで推し進められてきたところに、 いわゆる′′エコノミック・アニマル′′と、呼ばれなければならないような状態を生みだし、公害などの社会矛盾を噴出させたことも否定できません。 要は、国家的な規模であれ、 一個の人間次元であれ、全体的な調和と統一を目指す潤いある人間性に生きることが、正しいのではないかと思っております。」
(池田大作・松下幸之助対談『人生問答』より) 

小林美希『ルポ 保育崩壊』(岩波新書 2015年)
子どもにとって保育士は、時にはヒーローであり、時には甘えさせてくれる家族であり、時には無条件に泣かせてくれる最大の理解者だ。そんな保育士が誇りを持って働けない環境だとしたら、子どもはどうなってしまうのだろう。美しい国、などと年寄りが虚勢をはったところで、子どもが見るのは地獄だ。

高橋しん『いいひと。』 (小学館 2004年)
ひとは何のためにはたらくのだろう。ひとを傷つけても働くことに意味があるのだろうか。家族を護るために働く、その言い方は国を守るために働く、というのと同じくらいウソで塗り固められているように思う。ちがう。私は私がしあわせになりたいからはたらく。私の大切な人の笑顔がみたいからはたらく。

飯島裕子・ビッグイシュー基金『ルポ 若者ホームレス』(ちくま新書 2011年)
働くことを希望してもブラックな職しか得られない社会。そのなかで暴力的な労働社会の犠牲になっても、それでも自らは暴力を振るう側にまわることを拒否する。そんな、まっとうな感覚をもっている人がホームレスにならざるを得ないのが問題だということに気付かない。それこそが暴力じゃないか。

森岡孝二『雇用身分社会』(岩波新書 2015年)
安倍首相の目指すものは「世界で一番企業が活躍しやすい国」であると筆者は指摘。その文脈で語られる「女性活躍」や「一億総活躍」など首相のスローガンには個の幸福や多様な価値観は含まれていないかのようだ。企業が儲かれば構成員は幸せだという傲慢な全体主義・組織主義が、そこには見え隠れする。

村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社 2002年)
ユダヤ人大量虐殺を、いかに短期間にローコストで行うか。与えられた課題をせっせと計算し、こなしていったナチスのアイヒマン。彼は自らの美しい計算値を乱す不確定要素を憎む。大雪、停電、ガス不足、ときに戦争をも。物語中のちょっとした挿話のなかに、人間の想像力をショートさせてしまう、「仕事だから」という言葉の怖さを見た。

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】--基本と原則』(ダイヤモンド社 2001年)
企業の目的は企業の外(社会)にある――すなわち、顧客を創造することだという。誰が何を望み、自分たちは何を提供できるのか。他者との関係性において価値を捉える牧口価値論にも通じる企業論といえないだろうか。

カミュ『シーシュポスの神話』(新潮文庫 1969年)
 地上の生への強固な情熱をもち、神をも恐れなかったシーシュポスは、神々の怒りによって、巨岩を山の頂まで押し上げる刑罰を受ける。しかも、その岩は山頂にとどくなり、転がり落ちて麓に戻ってしまう。今日も、明日も、明後日も・・・・・・果てしなく巨岩を押し上げ続けなければならない。無益で希望のない労働を、それでもなお「すべてよし」とする、生命の輝きと勝利を謳う。

松本零士『銀河鉄道999「ウラトレスのネジの山」』
 少年画報社文庫 1994 宇宙中で使うためのネジをつくり出している惑星ウラトレス。ネジの大地に、ネジの山に、ネジ混じりの雨が降る。そこで出会ったラセンという女性は、機械の体をもって、明けても暮れてもネジをつくり続けている。ネジをつくることが宇宙のどこかで役に立っていると信じ、自分も文明を支える一本のネジであると自負し、「決心して自分でネジになったら、けっして泣き事をいわないのが、本物のネジだ」と語る彼女は清々しい。

山田玲司『資本主義卒業試験』(星海社 2011年)
 コマ割り漫画風イラストのついた小説。成功したけれど心虚しい漫画家(主人公)、卒業が危うい女子大生、エコ生活が耐えられないで逃げてきた若い男、そして悪どく稼いできたことに嫌気がさした中年の元商社マンの4人が教授の出した試験問題「資本主義を卒業するにはどうすればよいか」という言葉をめぐって出会い、ファンタスティックな旅に出る。「無限の成功」という思想に洗脳しようとする「資本主義ランド」の老マスターにあらがって主人公が得た教訓は3つ。「からだ」(いのち、環境、など)、「師」(実用よりはむしろ人の道を教えてくれる存在)、そして「じぶん」(もちろん、私のこと)。これは、我々の、そして世界の卒業試験でもある。

橋本健二『新しい階級社会 新しい階級闘争』(光文社 2007年)
日本は、今や階級社会である。総中流という社会像はかつても幻想だったが、今や完全に崩れた。格差は世代をまたいで継承されている。日本の現状の「新しさ」は、正規雇用と非正規雇用との間にある。それは、正規雇用という「資産」または「権力」をめぐって下層の人々の間で闘争と搾取が起こっていることである。上層は安定している一方で、下層はさらに下層へと移動するリスクにさらされている。筆者は、階級ごとに人格的な特徴があることも指摘する。階級分析に一石を投じた好著。

本田由紀『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ』(岩波ブックレット)
経済成長で再配分が不可能な現在、成長神話を精査しリセットする必要があるのではないか。本書は、日本を呪縛する「戦後日本型循環モデル」の誕生と普及を概観し、組織の凝縮性と同調動圧という一方通行というその特異な限界を示す。高度経済成長とは条件が偶然に交差した再現不可能な神話にほかならない。著者は「戦後日本型循環モデル」を、教育・仕事・家族が一方向にリンクする特異な構造と素描する。「仕事・家族・教育という三つの異なる社会領域の間が、㈰きわめて太く堅牢で、㈪一方向的な矢印によって結合されていた」戦後日本型循環モデルは、低成長の縮小・成熟社会の現在、再現不可能な拡大再生産システムといってよい。いい学校に入り、いい企業に入り、お金を稼いで家庭をもつことが悪い訳ではない。しかしその一歩通行のシステムは現在において維持することはもはや不可能だ。個人の行動や責任ではどうにもならない構造的破綻を前に「働かざるもの食うべからず」とか「苦しいのは自業自得」といってもはじまらない。「このままではだめだ」だが、循環モデルの呪縛に囚われず脱却や変革を創造するほかない。