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選書プロジェクト 第14号

ネットプリント番号:94659247(5/25まで)

ー宗教の倫理と公共性ー
「汝須く一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷らん者か」(あなた個人の安寧を願うなら、世界の平和を祈りましょう。)

日蓮の主著『立正安国論』末尾近くの言葉です。日蓮の「くに」は民が中心でした。安国論のもともとの題字も、くにがまえの中に「民」でした。国家主義者に利用された時期もありますが、日蓮の国家思想は実はかなり合理的で民主的です。しかし、時代が下って、近代市民革命を経て、西洋では「世俗化」と呼ばれる動きが、大きくなります。日本でも、宗教は現実政治に対する影響力を減じていきます。宗教は次第に公的な領域から退いていったわけです。

ただ、そうは言っても、西欧キリスト教社会では、教会や修道会が、病院、救貧、孤児院、老人施設、学校などの民間のソーシャルサービスを担ってきた長い歴史があります。日本では最近まで宗教は個人が私的な場面で思い行なう事柄であって、殊更に宗教者が地域で社会的な活動を行うことを喜ばない傾向がありました。もちろん、歴史を辿れば、日本の寺社も、近代以後ではキリスト教団も、社会活動に熱心な場合もありました。しかし、第二次大戦後、「政教分離」という言葉が普及するに連れ、宗教が本来持っていたはずの「公共性」や「活動性」が薄められていったように思われます。

政教分離とは、本来は「国家と教会の分離」であり、いわゆる「国教」の廃止であって、決して宗教信仰者の政治活動を禁止するものでありません。まして、信仰者が社会活動をすることを妨げるものではないはずです。

ただ、21世紀に入って、流れが変わりました。地域社会での宗教者と宗教教団・施設に対する評価が変わったのです。阪神大震災、東日本大震災、そして今回の熊本・大分大震災で宗教者と宗教施設が果たしている人道的な役割は目覚ましいものがあります。避難者の支援に加えて、慰霊やカウンセリングなどの「心のケア」にも大切な働きをしています。それは、宗派や教団の枠を越えています。宗教は、日本においても、もはや私的な救いに奉仕するだけではなくなってきました。
宗教を軽視したり否定したりすることがあたかも社会の進歩であるかのように言われた時代を経て、今や宗教を活かす時代に入ったように思います。平和や環境などの公的な領域について積極的に発言する教団が増えています。ただ、権力が宗教を利用することには警戒すべきでしょう。宗教者自身が、自らを律することもまた必要な時代なのです。

アリス・ハーズ 『ある平和主義者の思想』 (岩波新書 1969)
厳格なクウェーカー教徒だったハーズの焼身自殺は、ベトナムで弾圧に抗議して焼身自殺を遂げた仏教徒ティック・クアン・ドック師の影響だとされる。弾圧への抗議と平和への希求を、宗教的信念に基いて思索した結果、そこまで思いつめさせた政治の鈍さに激怒する。絶望的な状況は今も変わっていない。

グスタボ・グティエレ 『解放の神学』 (岩波現代新書 1985)
宗教は何のために存在するか。「貧者の解放のためである」と明確に言い切ったのが、「解放の神学」である。ラテン・アメリカでは政治の混乱が、人権侵害と貧困をもたらした。それに抗し生活者を守る働きを「解放の神学」はしてきた。日本の政治の混乱に抗し生活者を守る解放の宗教は、どこにあるか。 

菅野完 『日本会議の研究』 (扶桑社 201651)
安倍政権のブレーンを含む多くの政治家に影響力を持ち、ー大政治勢力となっている日本会議。本書は地道な調査に基づいてその実態に迫っている。すべての始まりは半世紀近く前の「反左翼」の学生運動。そして、それを支え続けるある宗教の原理派の団結。右派の執念と連帯を、左派こそが学ぶべき。

テリー・イーグルトン(大橋洋一、小林久美子訳)『宗教とは何か』(青土社、2010)
ユダヤ・キリスト教における「神」をめぐり、ドーキンスやヒッチンス等らの宗教を非科学的「妄想」として批判する科学的・合理主義的論難を快刀乱麻に斥ける。「およそ似つかわしくない人」による宗教が政治的に重要な意義を持つとの現代批評だ。 
著者は、宗教と科学、キリスト教と進化論、信仰と理性某等々、宗教にまつわる様々な論難を取り上げ、宗教に注目する意義を語る。冷戦構造の崩壊は宗教の復活を促し、社会主義やナショナリズムが引き受けてきた課題を宗教が引き受けつつある。
 宗教が現実的諸問題をパーフェクトに解決することは不可能であろう。しかし宗教運動は、グローバル資本主義下の現実と向き合い格闘している。宗教を妄想と斥ける論者たちはどこに定位するのか。彼等は全く無視している。
 権力に処刑されたイエス=キリストと、原点から乖離したキリスト教会。そして西洋文明による搾取と差別の歴史に真正面から取り組む著者の姿勢と、科学の積極性のみを楽天的にとらえ、暗部を顧みないドーキンスら批判者との違いは大きい。

島薗進 『国家神道と日本人』 (岩波新書 2010721)
戦前の「国家神道」は、草の根の運動が支えていた。筆者は、国家の政策と天皇家の祭祀と地域の運動とが連携した姿を描いた。そして、今なお、天皇家の祭祀として「国家神道」が生き残っていることを指摘する。日本会議など、明治憲法の復活を願う動きが注目され始めた現在、再読されるべき古典的とすら言える業績である。

小川原正道『明治の政治家と信仰 クリスチャン民権家の肖像』(吉川弘文館 2013)
本書は、片岡健吉、本多庸一、加藤勝弥、村松愛蔵、島田三郎を取りあげその生涯を辿りながら、政治と信仰という外と内の関係を論じる一冊。近代日本の「良心」はキリスト教が担ったと言っても過言ではないが、彼ら自身は教会主流派とは言い難い。政治と信仰の相剋の苦悩、葛藤し、迷いは示唆に富む。

ロバート・N・ベラー、島薗進、奥村隆編『宗教とグローバル市民社会』(岩波書店 2014)
本書は、グローバル市民社会における市民宗教の可能性を宗教社会学の巨匠が大胆に論じた魅力的な一冊である。現代の政治的な課題とは、弱肉強食を自明視する新自由主義の是正である。その課題は、抗う側の宗教の課題でもあるとベラーは言う。グローバルな連帯には宗教的な動機必要だからだ。注目すべきは丸山ファシズム論をめぐるベラーの評価である。自己中心的な関心を超え、他者へ向かう宗教的意識は民主主義につながると論ずる一方、排外主義と歴史修正主義に傾きがちな現代日本にも警鐘を鳴らす。普遍的連帯には、絶対的な信念の発露は普遍的連帯には欠かせない。しかしどのように導くかは、信仰者一人ひとりの課題である。ベラーの叡智は、現代世界の挑戦に対する応戦のひとつモデルとなり得よう。

小島信泰 『最澄と日蓮―法華経と国家へのアプローチ』 (第三文明社 2012)
最澄と日蓮という法華経思想の巨頭が抱いた国家思想の意義を論じる。牧口常三郎と宮沢賢治の法華経観にも言及。彼らの共通点は、聖俗平等と現世主義。筆者はリベラルな視点でこれらの思想家を評価する。優れた法華経思想論である。

大田俊寛『現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇』 (ちくま新書、2013)
二元論的思考こそ、19世紀以降の宗教運動に共通する要素である。本書はその根幹を「霊性進化論」ととらえ、神知学からラエリアン、幸福の科学にいたるまでの系譜を明らかにする。霊性進化論とは進化論と輪廻転生のコングロマリットであり、世界観は陰謀論だ。カラクリを知った私たちと洗脳されている大多数の人々とという善悪二元論と排他主義的選民思想の跋扈と構造は、宗教だけの問題ではない。

荒木飛呂彦 『ジョジョの奇妙な冒険 4 ダイヤモンドは砕けない』 (原作:集英社 アニメTVシリーズ:david production 原作1992/ アニメーション 2016)
著者はかつて作品を貫くテーマ「人間賛歌」とは「『人間』を否定しないこと」であると語った。作中のキャラクターは非道な悪役でさえ華麗に魅力的に描かれる。
少年漫画において正義と悪との対決は常につきまとうテーマであるが、時に人間をカテゴライズし排除へと暴走するのもまた「正義」である。本作品のテーマ「人間賛歌」と「正義」とは一見、両立し難いテーマのようにみえる。しかし正義と邪悪との火花を散らす戦いなくして魅力ある少年漫画は成立しえない。
本作品では正義そのものではなく「正義の輝きの中にある」精神に焦点を当てることで、正義を確立しつつも正義に潜む鋭利さや排他性を乗り越え、作品を既存の正義と悪の二項対立に収まらない魅力あるものとしている。
『人間賛歌』と並ぶ本作品の代名詞『黄金の精神』の概念が初登場するシリーズ4作目。
邪悪を前に恐怖に打ち勝ち抗い続ける人間の精神は、どんなスタンドでも砕けない。

ジョン デューイ(栗田修訳)『人類共通の信仰』(晃洋書房、2011年。)
宗教の源泉はどこに存在するのか。デューイによれば、経験の「宗教的性質」に存在するという。個々の制度宗教の伝承にのみ準拠するというのが伝統的な解釈であったが、宗教(制)は、時として、人間の宗教(性)を歪めてしまうこともある。だとすれば、歴史性をふまえたうえで、人類に共通する宗教「性」を重視するデューイの眼差しは、宗教間抗争におけるドグマティズムを撃つ示唆となろう。

上田紀行 慈悲の怒り 震災後を生きる心のマネジメント (朝日新聞出版 2011611)
東日本大震災直後の刊行。震災と原発事故。後者は明らかに人災である。人災の責任者の怠慢に怒らないことはむしろ慈悲の精神に反すると著者は述べる。仏教の慈悲は。正義の怒りにつながるはずである。諦念や観想ではなく、行動こそが仏教なのである。

ミロス・フォアマン 『カッコーの巣の上で』(ワーナーホームビデオ 1975)
刑務所の強制労働を逃れるべく精神異常を装った男が、人権を無視した病院の桎梏から患者らの開放に挑む。男はロボトミー手術で生ける屍となり、静穏に戻ると思いきや無口で狂人と見えた先住民族の大男が、ガラスを大破し逃亡する象徴的なラスト。

マーク・ユルゲンスマイヤー、立山良司(古賀林幸ほか訳)『グローバル時代の宗教とテロリズム いま、なぜ神の名で人の命が奪われるのか』(明石書店、2003)
 キーとなる概念は「コズミック・ウォー」。暴力の連鎖を続ける人間は、秩序や真理の確立を妨げられた被害者意識を原動力に、妥協のない善と悪といった二項対立でのめり込む。これは宗教だけに限定される話ではない。
 単純に宗教を断罪するのではなく、「宗教的イマジネーションが今日なお公的な場で力を保持していること、そして多くの人が宗教のなかに主義主張よりも暴力からの癒しを求めようとしている」ことから理解するほかない。
 世俗主義は、前時代に対する反省からの当然の要請としても、公的空間が実際のところ特定の価値観を代表する形で、価値並立が歪つになった場合、それは批判・再構築されてしかるべきであろう。前近代に対する反省を踏まえ、それぞれの唯一性・垂直性は尊重されなければならない。
 異なる他者と共に生きるということは、排除によって成立するのでもなければ、妥協の産物でも決してない。むしろ単純さや無視を決め込むのではない、ねばり強い根気づよさが必要なのだろう。

島薗進・磯前順一() 『宗教と公共空間: 見直される宗教の役割』 (東京大学出版会 201482)
近年の宗教の公共性をめぐる議論をまとめた論集。ヨーロッパでも日本でも、20世紀末から宗教の倫理と公共性が注目されてきた。リベラルな思想家が宗教者と対話を始めたのである。これもまた、社会の進歩である。

島田裕巳 『宗教消滅―資本主義は宗教と心中する』 (SB新書 2016215)
グローバルな宗教変動を分析した問題作。宗教学者の著者は近年はグローバルな資本主義の問題も論じている。日本では既成宗教も新宗教も衰退しつつある。それは、信者の高齢化が背景にある。世界規模でも、資本主義の展開は宗教の役割を減じさせると言う。イスラム教人口の成長もまた経済から説明する。著者のセオリーに目新しさはないが、総括的な視点は一読の価値がある。

ディスカバリーチャンネル()『バチカン 超時空の聖都市』(角川書店 2005)

カトリックの総本山バチカンの総合的な紹介DVD。ヨハネ・パウロ2世時代の映像だが、インタビューが秀逸。特に附属天文台の担当神父の教会批判は興味深い。宣伝と正当化だけではない。

遊川和彦脚本『さとうきび畑の唄』(TBSエンタテインメント 2004)
森山良子の「さとうきび畑の唄」をモチーフにつくられた沖縄戦を題材にしたドラマ。全体的にはソフトなつくりだが、見やすい作品になっている。明石家さんま演じるひとりの男性が、「戦争反対」という心の内を戦場でも吐露する場面に、戦争は何の利益ももたらさないことを感じる。

ナショナルジオグラフィック()『ユダの福音書 イエスと”裏切り者”の密約』(ナショナルジオグラフィック 2006)
実際は数多くあった「福音書」。神話となった原始キリスト教発生の物語を相対化する資料が現れた。ユダは裏切り者ではなく、哲学的な同志だった? 信者の団結のために聖書は選ばれた? ドキュメントとドラマで描く聖書成立の謎。評者は「笑うイエス」像に興味あり。




選書プロジェクト 第13号

ネットプリント番号:70518043(5/11まで)

憲法

69回目の憲法記念日を迎え、立憲主義を破壊する「壊憲」を防がねばならないと思うこの頃です。

このごろ、どうも日本流の政治神学が生まれつつあるように感じます。政権与党のなかに、権力の都合のよい義務を憲法に書き込み、国家のために国民を強制したり、でっち上げた「伝統」によって国民を「訓育」しようとする動きがあるようです。これなどは、とてもではないが、近代民主国家のあり方とは言えません。

政治神学とは、ドイツの政治思想家カール・シュミットが使用した言葉です。キリスト教文明に属する諸国では、主権者の存在をめぐる長い論争がありました。一方の極に主権の「超越性」を説くカトリシスムがあり、他方の極に無伸論の共和主義があります。多くの日本人にとって馴染みの薄い話に聞こえるかもしれませんが、「国体」の思想を思い浮かべることができるでしょう。シュミットは「例外状況」において決断することを政治権力の基本に置こうとしました。神ならぬ国家が超越的な権力を持つというのが政治神学の主権イメージです。しかし、シュミットですら、人による独裁を否定しています。

シュミット以後も「法の支配」か「決断」かという意見の対立は存在します。前者は権力の暴走を防ぐために権力者を縛るべきと言い、後者は「例外状況」に備えて権力を縛るべからずと言います。憲法学者の多くは前者を唱え、政治学者の若干は後者を主張する傾向があります。

しかし、どちらの立場も、目的は国の平和と国民の福利です。少なくとも近代民主国家においては、そうです。国民のために国家があるのであって、決してその逆ではありません。「緊急事態条項」の議論がにわかに起こっています。立憲主義なき決断主義は、極めて危険です。しかし、今の政治の空気はそうした危険な決断主義に傾いているようです。「裏口から」クーデターを仕掛けるような決断主義は断じて許してはいけません。

佐瀬一男/ 龍澤 共著『法学へのプレリュード――法は誰のものか』(八千代出版 2009年)
本書では、通説・対立する学説をバランスよく併記しつつも、
・「九条は国の自衛のために軍備以外の方策を求めることを要求している」
・「憲法改正無制限説」に対しては憲法の「自殺行為」でありたとえ正当な手続きに従った改正であっても「一定の限界がある」とし、仮に憲法の価値体系:根本規範の限界を超える改正がなされるならば「それはすでに憲法の改正ではなく、全く別の新しい憲法の制定であり、法的には革命であるといわざるをえない」
・デモ等集団行動の暴徒化の危険性を指摘した東京都公案条例事件の最高裁の判断に対しても「現在の議会制度が、その選挙制度の歪みも手伝って必ずしも国民の声を十分に反映しているとはいえない状況にあることを鑑みるとき、東京都公案条例事件での最高裁判所の判決は、集団行動の意義をあまりに過小評価したもの」とし
・在日韓国人・朝鮮人などの定住外国人の参政権等についても「基本的には保障されるものと解すべきであり、少なくともその方向で法制度を整えるべき」とし、ある差別が「合理的差別」かどうか判断する場合は「差別する側ではなく、差別される側にとって納得のいく合理性であることが要求され」る
等、両著者の国家権力に毅然と対峙する姿勢、国民・マイノリティの人権を護らんとする強い意気込みが感じられる創価大学の教科書としても長年親しまれている法学入門書である。
ところで本書では「法は民衆のものである」としながらも
「専制政治に勇敢に戦いを挑んで偉大な市民革命を成し遂げたのが『民衆』であるならば、そのような残虐な専制政治を黙認してきたのも『民衆』なのである」とのまえがきから始まる。
そして副題では「法は誰のものか?」と問いかけ、本書の読み込みを通して読者が答えを主体的に得るよう促している。著者の言葉を借りれば専制政治許してきたのは『黙認する専門家』でもあったであろう。
実体として法を民衆のものたらしめるのは権力に屈することなく声をあげ続ける民衆と法学徒の「勇気」「行動」「誇り」であると信じたい。

樋口陽一・小林節 『憲法改正の真実』 (集英社新書 2016
改憲派も護憲派も、自民党の「改憲草案」には反対すべきである。二人の筆者は声をそろえてそう述べる。なぜなら、自民党案は「改憲」ではなく「壊憲」つまり立憲主義の破壊だからである。9条に対する相違はあるものの、改憲派の小林と護憲派の樋口の意見は、ほとんど一致している。個人の尊厳の否定、新自由主義による社会連帯の破壊、復古主義による慰撫と道徳への介入、緊急事態条項による独裁の導入・・・。自民党版憲法は、もはや近代民主国家の憲法ではない。もはや自民党は保守ですらない。人類の進歩を否定する極右「壊憲」クーデターは止めねばならない。そのために、憲法学者ではない我々の国民は、そうした危機状況を正しく「知る義務」があるのだ。

講談社編 『新装版 日本国憲法』 (集英社新書 2016年)
「日本国憲法」全文の他に、平成18年に改訂される前の「教育基本法」を収録。「大日本帝国憲法」、「日米安全保障条約」、「児童憲章」、「英語版 日本国憲法」も収録。憲法を論じるには、当然ながら、まずはそれを読まねばならない。評者自身は、現憲法の利点を再認識した。

坂井豊貴 『多数決を疑う 社会的選択理論とは何か』 (岩波新書 2015
96条は公職選挙法によって縛られている。現行の選挙制度では半数以下の支持で3分の2以上の議員を送り込めるため、筆者は「九十六条は見かけより遥かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべき」と指摘、国民投票の改憲可決ラインを64%程度まで引き上げるべきだと主張する。諸外国の選挙制度との比較も興味深い。「多数決は正しい」との妄想は幻の鉄鎖に過ぎないようだ。

長谷部 恭男 『憲法と平和を問いなおす』 (ちくま新書 2004
201564日、憲法審査会で三人の参考人のうち、自民党推薦の長谷部恭男氏を含む三人全員が安保法案を「違憲」だと述べた。この衝撃は大きかった。自民党側の論を展開すると思われていた長谷部恭男氏は、なぜ違憲の立場をとったのか。本書は立憲主義の根底に平和主義を示す。

樋口 陽一 『自由と国家―いま「憲法」のもつ意味』 (岩波新書 1989) 
明治憲法制定百年に当たって出版された本書は、現行の日本国憲法の意味を歴史的に位置づける概説書と言えよう。その立憲主義の流れを遡ると、仏国の人権宣言や、英国の権利章典があり、つまりは国家の横暴から国民の権利を護るものが憲法であり、憲法は国家権力を縛るものであることがよくわかる。

『文明・西と東』 (サンケイ新聞社 1972年)
「欧州連合の父」カレルギーとの対談では、国際平和の秩序構築を目指し多岐に渡る議論を繰り広げる。日本国憲法9条の価値について深く合意し、「力の支配」の打開に向けて大衆意識の変革を訴えている。惜しむべきは、池田初の対談集であるにも関わらず入手困難な点。

井上ひさし 『吉里吉里人』 (新潮文庫 1985
東北辺境の村が独立する騒動を描く傑作小説。ここで井上ひさしは、独立の動機として「憲法9条がいじめられているのに腹が立って仕方がないから」。そして「こんなに美しい憲法があるだろうか」と吉里吉里語で村の古老に語らせている。日本国憲法を愛すが故に、いまの日本を許せないとは何たる皮肉か。
               
飯田 美弥子 『八法亭みややっこの憲法噺』 (花伝社 2014
軽妙な落語の語り口で語られる憲法論。とっつきにくいと思われがちな憲法を、江戸前の威勢のよい庶民言葉で語ることによって、専門用語でごまかされがちな問題の本質が白日のもとにさらされる。これを快感といわずしてなんと言おう。著者は八王子の弁護士さん。こんなひとに創価大学で教えて欲しい。

辻村みよ子『人権をめぐる十五講』(岩波書店、2013)
アタマの中では誰もが人権は普遍的だと考えるが、現実の衝突と対立に立ちすくむことがしばしばある。本書は、生命の自己決定権、信教の自由、原発事故が脅かす生存権といった具体的な15の現代の難問に挑むことで、問題解決の糸口を探る労作だ。人間が人間らしく生きることが人権であるにも関わらず、「個人のわがまま」と脊髄反射するのが日本的精神風土。問題を精査し安直思考を柔軟に退ける本書は、権力の利益誘導をリセットするスタートになる。

奥平康弘・木村草太『未完の憲法』(潮出版社、2014)
201564日、憲法審査会で三人の参考人のうち、自民党推薦の長谷部恭男氏を含む三人全員が安保法案を「違憲」だと述べた。この衝撃は大きかった。自民党側の論を展開すると思われていた長谷部恭男氏は、なぜ違憲の立場をとったのか。本書は立憲主義の根底に平和主義を示す。

監督:スパイク・リー 『インサイド・マン』原題: Inside Man (ジェネオン・ユニバーサル 2006)
「全ての悪事は悪臭を放つ 覆い隠しても悪臭は消えない」
銀行強盗と刑事の対決という古典的クライムサスペンスでありながら、「魂を売り渡すような一度の妥協・卑劣な行為の上に幾多の善行を重ねれば、過去は清算されるか?」
 強盗に手を染める人間であれ譲れない「最高に価値のあるもの」とは?等さまざまな視点を与えてくれる作品。  

内田雅敏『靖国参拝の何が問題か』(社新書、2014)
靖国問題の本質とは近代日本の戦争を聖戦とする歴史認識にほかならないーー。本書は基本的知識から靖国の歴史とその現状を丁寧に解き明かす。戦没者は追悼されるべきとしても顕照するものではない。一人ひとり人間の生命を尊重する日本国憲法をあざ笑い、基本的人権の尊重に制約をかけようとする生権力とその手先は、靖国と憲法改正で交差する。対峙し続けなければならない人類の敵である。。

稲葉剛『生活保護から考える』(岩波新書 2013)
「文化的で最低限度の生活」を憲法25条では保障しているが、現実には、その抑圧に躍起になっているのがアベ政治である。その意味では最高規範は存在するものの、その血肉化とはほど遠い政治と行政が行われていると入ってよい。本書は、生きるための最後の砦である生活保護制度の危機の報告だが、普通の市民を自認する人にこそ読んで欲しい一冊だ。生活保護は「徴兵逃れ」でも「楽してお金が貰える制度」でもない。「日本社会では人々の怒りや不満が貧困や格差を生み出している社会構造になかなか向かわない」。バッシングを繰り返しても詮無いことだ。

柄谷行人 『憲法の無意識』 (岩波新書 2016)
著者は日本国憲法の平和主義も象徴天皇制も近世以来の日本文化の深層と調和していると述べる。フロイトの無意識を援用し、カントの平和主義を自然主義で読み替える論旨はたいへん興味深いが、いささか強引で楽観的に過ぎる印象を受けた。ただ、著者は世界システムの覇権交代というグローバルな視点に憲法9条を位置付ける。欧米からアジアへと覇権が移る時代に、日本の平和主義は大きな意味を持つ。著者は憲法9条の完全な実行を主張する。かつての非武装中立のことだろうか。護憲派のなかでもかなりユニークな書である。

長谷部恭男、杉田敦『憲法と民主主義の論じ方』  (朝日新聞出版、2015)
「安保法は違憲」と国会で指摘し、立憲主義を否定した現政権と対峙し続ける憲法学者が日本の病理を徹底的に分析する一冊。各国の政治制度や運用を比較しながら、選挙、デモ、集会の意義など、立憲主義と民主主義の意義をすくい上げる。党派信条を超え「おかしいと思ったときは行動に訴える責務」今こそ。

創価学会婦人平和委員会編、まんが・山根赤鬼『まんが わたしたちの平和憲法』(第三文明社、1988)
「基本的人権をたいせつにするすばらしい政治をおこおうとしてもそれを根こそぎだめにしてしまうものがある…それは戦争だ!」。1980年代、創価学会青年部と婦人部は、戦争の生き証人から聞書きし、反戦出版を積み重ねてきたが、本書はその一つの頂点である。平和への願いをこめて叡智が結晶した平和憲法の意義をわかりやすく説いている。本書をはじめ、反戦出版のほとんどが今や絶版である。何か変わったのか?

柳澤協二著『新安保法制は日本をどこに導くか』  (かもがわ出版、2015)
防衛官僚として40年勤め、イラク戦争時に官邸にいた著者がイラク派遣、安保法制の問題点について語る。私自身もそうだが、護憲派は戦争や軍事に疎い。世論を動かすには戦争のリアルを知ることという著者の指摘は耳が痛いが、大事な指摘。100p弱で語り口が優しく読みやすいので入門書としても。 

古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫、2009)
軍国主義を否定し、民主主義の礎となった日本国憲法が嫌いで嫌いでたまらない人たちが常に持ち出すのが、GHQからの押しつけ論だ。本書は豊富な資料精査から、その説得力を完膚なきまでに打ち崩す鋭利な一冊である。日本国憲法とは、戦前から萌芽したデモクラシーの水脈のもと、世界との協同で理想が結実したものである。押し付けなどでは決して無い。

テリー・ギリアム監督『未来世紀ブラジル』(20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン 1985)
高度管理社会において反体制反権力に生きる人間の究極の自由を描いた。SFファンタジーから一転惨たらしい現実へと観客を蹴り落し、沈んだ心に名曲「サンバ・ブラジル」が爽やかに明るく、それ故一層虚しく流れるエンドロールが印象的な不朽の名作。

座間味 『うふそー一族(comico.jp
 2014年〜)
沖縄の若い一家の日常を描く、カラフルなスマホ漫画。沖縄に思いを馳せるとき、脳裏に浮かんだ光景に色はついていますか?その明るい色彩の向こうに、どんな苦しみがあるか、想像してみてください。 楽しい日常生活に浸透する米軍基地発信のアメリカ文化や、戦争の傷跡を感じさせる文化の断絶。ナマの沖縄がここにあります。