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選書プロジェクト 第16号

ネットプリント番号:03112985(6/22まで)

地方分権と中央集権
本当にそうかな?どうして当たり前なんだろう?
(そう考えることが学問だね)
日本って、本当にあるの?いまいるところって、日本?
(誰かがそう名付け、その範囲が日本だと皆が共通認識を持つ)
でも、誰かが名付ける以前は?
(そう、あなたの住んでいるところは、あなたの町)
私の住んでいるところは、隣町のとなり。私の住んでいるところは、海の向こうの町とおなじ、ひとの住む町。
(あなたの住んでいるところは、地球という星の、片隅だけど、まんなか)
わたしが中心で、そこから世界がひろがっている?
(だから、中央なんて、ほんとは無いんだね)(いつの間にか、国ができ、中央ができ)(中央でないところは地方と呼ばれる)
私のいるところが中央。それ以外は地方。あれ?なんかおかしい。
(誰のための「国」なんだろうね)
中央はぜんぶもっている、国はなんでも決められるそんなのは、おかしいんじゃないかな?
(おかしい、その違和感がきっと答えだよ)
うん、もっと学んでみる。どうしておかしいのか、知りたい。

小森治夫 『府県制と道州制』 (高菅出版 2007)
住民にとって最も身近な市町村と国との間に様々な機関が考えられる。一時期吹き荒れた「合併」の嵐がひと段落したいま、もう一度地方行政の新しい形を考える機会が巡ってきた。財政の効率と意思決定の正当性の両方をにらみながら、我々は柔軟な発想をするべきである。評者自身は、国に対峙する地方の団体自治という面を再考する必要を感じる。連邦的なイメージすら否定されるべきではない。


新谷行 『アイヌ民族抵抗史―アイヌ共和国への胎動』 (三一書房 1977)
アイヌ民族を政治的な側面から見ると、世界の他の先住民族と同様に、国家を持たず、他国家に支配されたひとたちである。国家を持たないということは、決して悲劇ではない。むしろ、国家に蹂躙されることが最大の不幸だとすらアイヌ民族の抵抗史を見ていて思う。地方と中央を超えた問題だ。

東浩紀 『一般意志2.0 (講談社文庫 2015)
ルソーの古典的な共同体思想と現代のネット世界の情報環境を「世論」という視点から統合しようとした。ルソーの時代には「理念」でしかなかった「一般意志」が、ITの発達のおかげで目に見える「現実」になってきた。筆者はテクノロジーを梃にして民意が真に反映できる新しい民主政治のあり方を探っている。しかし、ネットのつぶやきや「野次」は本当に熟議を補完できるのだろうか。意欲に満ちた提案であるが、問題も多い。

ロバート・D. パットナム 『哲学する民主主義―伝統と改革の市民的構造』 (NTT出版 2001)
地域の共同体の活性化が社会資本であることを説いた本書は、イタリアの地方自治体である州の研究に端を発している。日本の道州制を論議するときに、引き合いに出されることが多い本書は、しかし、「文化的伝統」の重要さを際立たせた文脈で読んでこそ、互いに尊重しあう社会への示唆となるだろう。 

ニコラス・フィリップソン(永井大輔訳)『アダム・スミスとその時代』(白水社 2014)
搾取の経済システムはリソースの一極集中によるトリクルダウンで「皆が勝つ」と偽装したが、中央集権的発想こそ「皆が勝つ」ものと程遠いものは他にはない。本書はアダム・スミスの最新の浩瀚な評伝だが、近代経済学の父が、現在の経済・政治体制を見たなならば、これほど「等身大の人間」とかけ離れた欺瞞のシステムはないと思うに違いない。
『道徳感情論』は「利他心」に注目するのが一般的な認識だが、著者は共感の交換を通して育つ正義の感覚に重きを置き、経済活動の要となる「交換」の視点から『国富論』が著されたと見る。この源泉はヒュームの「人間学」に由来する。経験主義の一つの理想をヒュームに見出すとすれば、スミスはその現実的展開とも評せよう。フランス啓蒙主義が急進化していくのとは対照的に、スコットランド啓蒙主義はどこまでも「漸進主義」的な人間の営為である。
修辞学を重視するスミスは「社交」の感覚に注目する。言葉は他者とのやりとりの中で適切に使用されたとき、相互に心地よさをもたらす。先験的独断よりも日常生活の中で試行錯誤を繰り返し歴史に学ぶことを重視したスミスらしいが、社交を担保するためには「謙虚さ」が必要となる。「この性向から、思慮ある一般市民は、千年王国じみた新たな天地創造をもくろむよりも、生活や公共の事案への対処において小さな改善」を努めることが説かれる。「自分の属する社会をよくしようとする、われわれの欲望」に従い一歩一歩漸進していくその生涯こそ、現在参照されるべき歩みである。

大城立裕 『小説 琉球処分』 (講談社文庫 2010)
沖縄県が誕生するまでを琉球王朝の視点から描いた小説。ここで描かれる琉球王朝の人たちの憤りと日本への反感、そして中国という隣国への感覚は、日本本土に暮らしていては、なかなかわからないものである。この小説を片手に沖縄を訪れてみてはどうだろう?そして、そこに佇んで読み返してみよう。

平川克美『グローバリズムという病』(東洋経済新報社 2014)
精査なきまま喧伝されるグローバル○○「いい加減ウンザリしませんか?」著者はグローバル信仰とその起源を追跡するのは、国家と会社の飽くなき自転車操業での幻灯がその実体である。都合のよい勝負の二元論と自己責任こそ人間と地域分断の元凶だ。

梅棹忠夫 『日本探検』 (講談社学術文庫 2014)
日本列島に厳として存在した地域ごとの多様性を、世界を探検する民族学者としての梅棹忠夫が見る。その視点からすると、多様性と同時に文化的な意味での多民族地域として列島を捉え直す必要を感じる。大阪吹田にある国立民族学博物館の創立に携わった氏の面目躍如たる作品である。

後藤竜二 『幕末・南部藩大一揆 白赤だすき小○の旗風』 (新日本出版社 2008)
小◯は「こまる」と読む。南部藩の圧政に困って、声を上げた岩手県三閉伊地方の農漁民の、苦悩と強い意志に満ちた「人間としての」軌跡を平易な語り口で追っていく。第17回日本児童文学者協会賞受賞。親子で読みたい本。読んだあとは、ぜひ岩手県田野畑村民俗資料館の一揆再現展示へ。

柳田国男 『遠野物語』 (角川文庫 1955) 日常生活 意味と物語 郷土 地方には地方の意味世界がある。標準語、「日本史」、戦前の中央集権、戦後の産業都市化、そして首都圏一極集中と少子高齢化・・・。地方は抑圧されるか、搾取されるか、利用されてきた。もちろん、地方には地方のエゴもある。しかし、もう一度、地方の意味の世界を学ぶ必要を感じる。柳田国男は、その最も良い教科書になるだろう。

村雲司 『阿武隈共和国独立宣言』 (現代書館 2012) 菅原文太氏が推薦文を寄せた小説。原発事故や国の圧迫に耐えかねた福島の住人たちが、国に捨てられるのなら、自分たちが国を捨ててやろうと立ち上がって、やがて日本からの独立を果そうと闘いを始める。空想小説ではあるが、背景には深刻な原発事故被害や現政権の傲慢が描かれる。

橋本一夫『幻の東京オリンピック 1940年大会 招致から返上まで』(講談社学術文庫、2014)
戦争で開催中止になったことはあるが、夏季オリンピックの開催都市が自発的に大会を返上したのは第12回東京大会(1940年)以外にない。本書は招致から返上に至るその経緯を克明に描き出す。日本の侵略主義が開催ボイコットに直結するが、肝心の競技施設を準備せず開催意欲だけ先行した立候補が仇になる。
日中戦争の拡大で競技場建設がストップし、開催か中止かの岐路に立たされる。「たかがスポーツの大会」としか考えぬ軍人たちはプロパガンダに利用したナチス以下の頭脳とも言えよう。
「ベルリン大会が真の国際平和と親善になんら貢献しなかったように、きたるべき東京大会もオリンピック本来の目的達成に役立つことはないだろう。さらに、米国選手がベルリン大会に参加したことがナチの宣伝を助ける結果になったのと同様に」東京大会でも利用されるとニューヨーク・タイムズは伝えている。
オリンピックとは政治との闘いの歴史であり政治そのものであるが、「平和の祭典」という看板もそれ以上に「現実」である。20年に東京開催を控える現在、政治に翻弄され「平和の祭典」を理解できなかった苦い過去を振り返ることは意義がある。東京集中と平和と繁栄とは程遠い現代日本はオリンピックをどのように開催するのであろうか。

津田直則『連帯と共生 新たな文明への挑戦』(ミネルヴァ書房、2014)
営利の競争システムだけが生活を豊かにすることが可能なのか。著者は、協同組合やNPOに焦点を当て、「競争」の替わりに「連帯」を提案。先進事例を紹介しながら、「連帯」が効率化を促進することを論証する。人間性の危機・地球環境の危機の原因も競争に起因する。目から鱗とはこのことか。

杉田敦編『連続討論「国家」は、いま 福祉・市場・教育・暴力をめぐって』(岩波書店、2011)
「企業という組織形態が能率的ですぐれたものと見なされる一方で、政府が非能率の極みとして侮蔑されている時代」だが、果たしてそうなのか。政府の責任放棄と民間万能論を退け、そのイメージを更新することで国家は本来の役割へリソースを注ぐべきではないか21世紀における国家の役割とは何か。国家と市場、そして市民社会の関係を、福祉・市場・教育・暴力という観点から多様な専門の論者たち未来を構想する一冊。

江口克彦 『地域主権型道州制―日本の新しい「国のかたち」』 (PHP新書 2007) 道州制 地域主権 参議院 道州制解説の定番。国、道州、基礎自治体の三階層にわけて、道州から参議院議員を、基礎自治体から衆議院議員を出すことを提唱している。しかし、中央集権の弊害を排し、地方の意見を政治に反映させるには、これらが北東アジア共同体の下部構造となって、はじめて奏効するであろう。