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選書プロジェクト 第6号


ネットプリント番号 36705086(2/4まで)

SGI提言に学ぶ

 私たちの社会が急速に交換可能な「取り引き」の世界に変貌しつつあるように感じています。
職場では人が「人材要件」によって取捨選択され、結婚相手からは「物件」と陰で呼ばれ、web上では見えぬ人たちから「監視」されている。都合のわるい人間はもっともらしい理由を付けて別の人間に交換され、その歪みは見えない場所でひっそりと悲劇を生んでいるのかもしれない。
 ”ありのままの人間”を丸ごと受けとめることなく、何かの「材料」や「手段」として見る思考は、いずれ人間にとって悲劇的な形として「戦争」への回路を開いているのではなかろうか。そんな予感ーー人間をモノとして見てしまわざるを得ない現在の社会状況に対するそこはかとない恐怖を私は感じてしまいます。
 現在の言いしれない閉塞感を「時流だから仕方ない」、「現実的に考えれば妥協せざるを得ない」と騙るとき、あたかも現実主義路線という理論思考に見えて、実は人間「不信」から湧き立つ妖の言葉なのではないでしょうか。
言い訳としての「机上の理論武装」に頼る弱さを捨て、人間不信を乗り越える”一歩”を私たちは共に励まし合って踏み出せないでしょうか。
「あなたは、かけがえのない存在なんです」
「私には、あなたが必要なんです」
と、私は出会った人たちに伝え続けていきたいと願うのです。平和を求めて、勇気ある一歩を。

「一部の人々が言うように、国際政治の現実に憲法を合わせるなどという改憲路線より、憲法の理念を現実の国際政治の中で積極的に生かす方途を求めるのが日本の使命でありましょう。なぜなら今日の地球社会の最大の問題の一つは、相互不信にあるからであります。不信感より発する武力による対決を避け、すべての問題を話し合いによる平和的解決に求める流れをグローバルに作り上げることが、何よりも必要かつ重要な時代であります。ここに平和憲法の理念を画期的なものとして世界に訴え続けていかねばならない理由があります。」(池田大作 第11回「SGIの日」記念提言より)

※池田大作創価学会名誉会長は、1983年以来、毎年、創価学会インターナショナルの日125日に世界へ向けて記念提言を発表しています。

マハトマ・ガンディー(浦田広朗ほか訳)『私にとっての宗教』新評論、1991
「私は、宗教という言葉によって、形式的あるいは慣習的な宗教を言っているのではない」。「宗教はわれわれの行為のすべてに浸透していなければならない」−−。本来、宗教とは人間のために存在する。しかし、現実には、人間が宗教のために奉仕してきた。このアポリアは宗教だけに限らずあらゆる協同に必然する。人間の隷属と他者の悪魔化を柔軟に退けるためには、人間を人間として尊重するというシンプルな原点に不断に立ち返るほかない。その隘路を丁寧に腑分けするガンディーの思索は、現世からの撤退ではなく挑戦を示唆してくれる。

<提言からの抜粋>
一人一人が、自分の行動によって影響を受ける人々の存在を思い浮かべ、その重みを絶えず反芻しながら、「本当の自己」を顕現する手がかりとして、人間性を磨いていく。その営みが積み重ねられる中で、政治や経済のあるべき姿への問い直しも深まり、再人間化に向けた社会の土壌が耕されていく−−。「中道」の真価は、この変革のダイナミズムにこそあると、私は強調したいのです。
第40回「SGIの日」記念提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」[2015126]

マーサ・ヌスバウム(神島裕子訳)『正義のフロンティア 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』法政大学出版局、2012
<提言からの抜粋>
 社会契約説などの伝統的な理論が、高齢者や子ども、女性、障がいのある人などを、対象に入れずに構想されてきたことを指摘する博士は、こうした人々の苦しみが見過ごされがちな要因の一つとして、功利主義を挙げ、その危険性をこう述べています。「ある個人の大いなる苦痛と窮乏は、複数の人びとの幸運がそれに超過することで相殺されうる。ここでは各人の人生は一度きりであるという、もっとも重要な道徳的事実が、ぬぐいとられている」 そこで博士は、「相互有利性」(互いの存在が利益を生むこと)を社会の唯一の基本原理であるかのように考える発想から脱却し、誰も排除しない「人間の尊厳」に基づく社会の再構築を呼び掛けました。 そしてまた、どのような人であっても、病気、老齢、事故などで、他の人々の支えを絶対的に必要とする状況が生じかねないという現実を見つめ、社会の軌道修正がすべての人々に深く関わる課題であることに思いをいたすべきであると、強調しています。
第40回「SGIの日」記念提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」[2015126]
正義の主体は常に「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の相互有利性のみを想定して、学問はこれまで、社会正義を構想してきた。しかし、果たしてそれで本当に正義は達成されうるのか。「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の基準は常に「富」と「所得」であったが、著者は、㈰生命、㈪身体の健康、㈫身体の不可侵性、㈬感覚・想像力・思考力、㈭感情、㈮実践理性、㈯連帯、㉀ほかの種との共生、㈷遊び、㉂自分の環境の管理、といった10項からなる「可能力アプローチ」を尺度に、排除を伴わない包摂という観点から新しい社会正義を提案する。包摂は常に排除とワンセットで運用されてきたが、それは人間の分断でもある。何かについて有用であることが人間としての存在証明となるのか。立場を問わず効率優先の歪な功利が人間を排除・分断する現代、希望を再び立ち上げるためには、人間観の更新を伴う想像力ある勇気を選択するほかない。

ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、1962年。
20世紀を代表するネオトミストのジャック・マリタンは、ベルグソンに学んだ後に、カトリックへ向かい、常に「普遍的(カトリック)とは何か」を内在と超越の相即関係から探求した。本書はマリタンの公共哲学論といってよいが、注目したいのは、国家より先に人間を置いている点だ。曰く「人間は決して国家のためにあるのではない。国家こそ人間のためのものである」。近代社会が自明とする主権の概念そのものまでも相対化し、人間に即して公共空間の設定を試みる。常に流転するこの世のものごとを絶対化することこそが、人間を分断し対立を必然させてきた。生きるとは現在に内在しつつ、現在を超越する視座も同時に必要になる。「暗黒と全面的混乱の時代において、人類にとって最悪の誘惑は、道徳理性を放棄しようという誘惑である。理性は決して座をゆずってはならない」。

<提言からの抜粋> 
 国連は主権国家の集合体としての制約や限界に常に直面しながらも、一方で、国連を舞台に育まれてきた“国際社会としての意識”こそが、国連の本来の使命を果たす突破口となりうるということです。
 例えば、世界人権宣言に象徴されるように、国連憲章の精神を実現するために“どの国であろうと揺るがしてはならない原則”を明確に打ち出すことで、各国の政策にも影響を及ぼしてきました。世界人権宣言の起草に深く関わった哲学者のジャック・マリタンは、「理論的な考え方において対立している人々も人権のリストに関して純粋に実践的な合意に到達することができる」(『人間と国家』久保正幡・稲垣良典訳、創文社)と強調しましたが、異なる思想的、文化的背景を持ったメンバーが最終的に意見を集約させることができたのも、国連という場の力があったからだと思えてなりません。
第40回「SGIの日」記念提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」[2015126]

エッカーマン『ゲーテとの対話(上・中・下)』岩波文庫 1968
場の共有から対話は始まる。対話によって引き出される世界像は、当の対話者すら瞠目する新しさをもっている。対話者は、時代と場の空気を巻き込んで、互いのことばを止揚し、新しい地平を切り開く。エッカーマンがゲーテとの対話の中で見出したものは、ゲーテ自らが予想しなかったものかもしれない。

ツヴァイク『昨日の世界(1)(2) みすず書房』1999
旅と思索で広い世界を見たツヴァイクを絶望させたものは、空間的にも知性的にも無限といって良いほど広がっている世界を一瞬にして劫火に投げ込んでしまう戦争の存在であった。暴力の忌避と、知性への憧憬が、これほど純粋な形で結実した人格も珍しいであろう。絶望から見えてくる世界こそ実像だ。

池田大作、L・ポーリング『「生命の世紀」への探求 科学と平和と健康と』聖教文庫、1996
科学は本来、人間とその生きる世界に献身すべき叡智である。しかし人間存在を脅かす核兵器の如き矛盾をも生み出してしまった。このアポリアにどのように応答すればよいのか。本書は「生命」をキーワードにその処方箋をめぐって科学者と信仰者が縦横無尽に論じた一冊である。人間同士の信頼や人間の生きる制度や規範に対する信頼の回復をも射程に秘めている。

池田大作、A・ペッチェイ『二十一世紀への警鐘』読売新聞社、1984
イデオロギーと世代の壁を超え、地球的問題群に挑むには何が必要か。精神の内なる変革を通じた社会レベルでの草の根運動の継続という倫理革命こそ、と二人は位置する。人間は自分自身への新たな理解を新たな役割を理解することによって初めて「壁」をおりはらうことが可能になる。二分法に囚われていては始まらない。

原作 三部けい 監督 伊藤智彦『僕だけがいない街 角川コミックス/TVアニメ  KADOKAWA/ A-1 Pictures2012/2016
 関わらなければ、引いて見ていればよく見えることがある。観察者を気どれば体良く立ち回れることもある。
一方で泥まみれになりながら「無様な一歩」を踏み出す人達がいる。目の前の人に手を差しのべるために。
その人達こそ雲の上の救世主ではなく「俺にとってのヒーロー」なのではないだろうか。

安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者 光文社』2010
どこまで弱者を増産し続けるのだろう。ここで描かれた現実は、美しい国などとはとても呼べない日本の構造的な差別と搾取を裏付けている。痛みを感じない政治は、やがて犠牲者を何とも思わない強権政治と、戦争をいともたやすく始めてしまう武断政治へと傾斜していくだろう。悲鳴に耳を傾けよう。

上脇博之『追及! 民主主義の蹂躙者たち [戦争法廃止と立憲主義復活のために』日本機関紙出版センター 2016
民意を反映しているとは思えない安保法は、どのように生まれたか。とてもわかりやすい解説書。安保法により変化する自衛隊の役割や、小選挙区がいかに民意を反映しないか、などの問題点が、平易な表現で示されている。いますぐできる異議申し立てとしての落選運動の根拠も詳述。安保賛成議員一覧付き。

ジョセフ・ニーダム『文明の滴定 〈新装版〉: 科学技術と中国の社会』法政大学出版局 2015
西洋と中国を対比させてみるニーダムの視点には、常に大きな問題がつきまとう。なぜ中国は停滞したか、である。この解答を官僚主義に求めるならば、その官僚主義を構成した倫理の欠如こそ、腐敗と独善を招いた根底的な要因と言えまいか。とすると、これは中国の歴代王朝と官僚に限ったことではない。

大和岩雄『日本にあった朝鮮王国―謎の「秦王国」と古代信仰』白水社 2009
渡来という言葉の豊かさを、ふたたび思い出させてくれる一書。異分子を排撃する昨今の風潮には、本来、この列島が歴史的に恩恵を受けてきた渡来者への尊敬と共感が欠けている。多様性は、独善を最も嫌う。一読して渡来文化の豊穣さに驚嘆した人は、単一民族という虚構に騙されることもなくなるだろう。

むのたけじ(聞き手・木瀬公ニ)『日本で100年、生きてきて』朝日新書 2015
著者は敗戦のその日、戦争責任から朝日新聞社を退社し、故郷で週刊新聞を刊行し続けてきた100歳の現役記者だ。本書はこの国の矛盾を見つめながら希望を展望し続けたむのさんからの私たちへのメッセージだ。「人間主義の原点は、戦争をやらせないこと」。「あきらめることをあきらめてまっすぐに努力すれば人間の願いはきっと実を結ぶ」。

橋本明『棄民たちの戦場―米軍日系人部隊の悲劇』新潮社 2009
第二次世界大戦中、ハワイの日系移民は敵とみなされる偏見に抗するために、志願兵として最前線に赴くことを選んだ。そこには国家に属さなければ社会生活が成立しないという歪んだ社会の構造がある。健全で穏健な個人主義としてのアナキズムすら許さないのが、国家主義であり、日本的な全体主義である。

柿崎明二『検証 安倍イズム 胎動する新国家主義』岩波新書 2015

国家性善説から出発する安倍イズムは介入政治をその特色とする。善いことを国家がやっているのだから文句を言うなとばかりに。本書はその思考と意志を首相の言葉から検証する。国家はそもそも万能ではないし、国家の善意を信じることは「国民のために」から「国家のために」に反転しやすい。押し付けの善意は不要、「勝手に決めるな!」

選書プロジェクト 第5号


ネットプリント番号:87679099(1/21まで)


宗教と暴力
  暴力の肯定は宗教の自殺行為

 「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(「マタイによる福音書」2652節)
 
 太古の昔、人間は他の動物とは違うという強烈な「自覚」を持つことではじめて人間となりました。そして人間となることで人間は宗教と向き合うことになりました。宗教とは、人間の歴史そのものといっても過言ではありません。では、人間の歴史とは何でしょうか。それは異なるものを排除しようとする暴力の歴史そのものであります。
 
 宗教は常に人間解放の源泉であり続けてきましたが、同時に暴力の源泉でもあり続けてきました。しかし、およそ世界宗教であるならば、いかなる理由があろうとも暴力は肯定され得ません。では誰が宗教の名のもとに暴力を肯定するのでしょうか。それは人間です。宗教自体が暴力を肯定するのであれば、それは宗教の自殺行為といってもよいでしょう。
 
 私たちは、今回、宗教の負の側面に関する叡智を選書してみました。諸宗教の信仰者として、宗教が人間破壊に傾かないように、その負荷を学び、引き受け、「剣を取る」ことに常に警戒することが大切だと考えるからです。宗教と暴力の歴史を学び、諸宗教に対する正確な情報を知ること。そのことによって現代世界最大の課題である暴力の克服に、諸宗教の一人ひとりの信仰者として関わっていくことが可能になるのではないでしょうか。
 
 見たくないものを正確に見据え、自身の来し方を振り返ること、そして同時に、異なる他者の歩みに学ぶこと――。信仰の深みもそこにはじまるのではないでしょうか。
 「私は、宗教を弘め、また自ら実践する人が常に心しなければならないことは、その最も根本的な精神を自らが正しく実践していくことだと考えます。他の人々に対して宗教の教義を押し付けようとし、いわんやそれに反しているからといって、社会的制裁を加えたり抑圧したりすることは、自ら宗教の精神に背いた行動になってしまっていることに気付くべきです。」(池田大作、B・ウィルソン『社会と宗教』講談社、1985年)

池田大作、アブドゥルラフマン・ワヒド『平和の哲学 寛容の智慧―イスラムと仏教の語らい』(潮出版社、2010年)
イスラムには常に砂漠の宗教とのイメージがつきまとうが、ムスリムを擁する最大の国民国家は、インドネシアである。この一点の誤解だけでも私たちはイスラムに関して何も知らないことを明らかにしているのではないだろうか。本書は同国第四代大統領との創価大学創立者との宗教間対話だが、イスラムの柔軟さと非暴力と対話の精神を見事に浮かび上がらせる。真の「寛容」とは、生命を守り悪を許さない心にある。そこには宗教の壁は存在しない。

マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(新潮社、2012年)
19世紀末のブラジルにおいて実際に起こった「カヌードス戦争」の史実に基づいた長編小説。神秘的な指導者コンセリェイロを始め個性的な人物たちが、国家とキリスト教の対立を軸に壮大な革命のドラマを描く。聖地において激化する暴力の嵐の中で、登場人物たちに様々な思想的逆転が広がり、「安全」な立ち位置が失われていく。何千もの死という現実を前に、この宗教戦争をどう総括すべきか、我々にも問われている。

田中芳樹『銀河英雄伝説』(創元SF文庫 2007年)
劣化した民主国家の軍事指導者にして民主主義の可能性を信じ続けたヤン・ウェンリーを斃したのは、独裁国家の砲弾ではなく、狂信的な地球教徒の凶弾であった。SFに仮託し、民主主義に必要な市民の資質を問うたこの作品は、同時に、宗教があらゆる前提を乗り越えて暴力的に働く可能性をも示唆している。

司馬遼太郎『街道をゆく 21 神戸横浜散歩・芸備の道』(朝日文庫、2009年)
宗論が政治権力の介入によって解決された「三業惑乱」。宗論が社会問題化するほど優勢だった門徒が、本山に対して起こした宗学の純化運動により、本山の教義解釈曲解の非は公場で幕府に否定され、本山は処罰まで与えられた。民衆運動は評価できるが、政治権力が宗教に関わることはあってはならない。

岡野八代『戦争に抗する――ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店、2015年)
暴力に巻き込まれた身体の悲鳴に耳をふさがず、喪われるものを想像して怒りを持ちながらも、報復的暴力を用いる誘惑と闘い、「葛藤しながら」行動するところに、暴力に抗する市民が生まれることを示唆している。「葛藤」という言葉こそ、ケアという関わりがいかに倫理的視点をもたらすかを示している。

ブライアン・A・ヴィクトリア 『禅と戦争: 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015年)
著者は皇道仏教の流れに、皇道禅、軍人禅、そして企業禅を位置づけている。服従を教えるプログラムとしての禅の在り方に疑問を持ち、戦争加担の思想としての禅を捉え直そうとしているのである。エピローグに書かれた著者の逡巡と宗内からの非難の言葉は、宗派内から声を上げる難しさをうかがわせる。

池田大作、マジッド・テヘラニアン『二十一世紀への選択』(潮出版社、2000年)
好戦的イメージほどイスラムの実像とかけ離れたものはない。イメージを作り上げるのは宗教ではなく人間である。本書はスーフィズムに造形の深いムスリムの平和学者と創価大学創立者によるイスラムと仏教の初めての対話である。イメージを超えてお互いを深く理解することから一切が始まる。「『文明間の対話』といっても、あくまでその基本となるのは『人間と人間の対話』なのです」。

南原繁『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(岩波文庫 2014年)
戦前日本の抑圧構造においては、その精神的支柱である擬似宗教の「国体」との対決なくして、学問は成立しない。天皇制ファシズムの下、次々と批判的知性は妥協を強いられたが、その橋頭堡を守ったのが無教会主義キリスト者であった。権力との緊張関係の中で命がけで編み出された本書は、永遠の相の下に現象を理解することの大切さを痛切に教えてくれる。現実的理想主義、今こそ。
河島幸夫『戦争と教会 ナチズムとキリスト教』(新教出版社 2015年)
ナチス台頭期からその独裁へと至る過程で、戦争と平和の問題にプロテスタント教会はどのように対応したのか。告白教会の闘争は存在したが、兵役を「積極的なキリスト教の道」と説いたのが大勢の対応である。戦争前夜のごとき現代日本において、擬似宗教への真理の収斂の経緯を学ぶ必要性は高い。この世のものを絶えず相対化できる力をもつことができるかどうか信仰者は試されている。

W・フーバー、H・E・テート(河島幸夫訳)『人権の思想 法学的・哲学的・神学的考察』(新教出版社 1980年)
人権を尊重しようという考え方は、人類が長い年月をかけて獲得してきた概念であるが、擁護義務を背負う為政者や連動知識人は、先験的ではないとの理由でしばしばあざ笑う。世俗的人権論には宗教も一貫して批判的な態度を取り続けてきたが、第二次大戦以降、百八十度転換する。人権思想を神学的に基礎づけることは果たして可能か、本書はその筋道をあきらかにする。戦争が教会を動かしたことに注視したい。

市川白弦『仏教者の戦争責任』(春秋社 1970年)
宗教の関する理解の疎いフツーの日本人は「一神教は暴力的、多神教は寛容」と言い、神儒仏の日本的宗教を平和の宗教とうそぶく。しかし、戦時下日本において、真っ先に戦争を礼賛し、「皇道宣布のための滅私奉公の十字軍」として働いたのは、ほかならぬ仏教である。仏教の差別即平等の論理は、戦後日本んの在日朝鮮人への同化政策への仏教徒の支持のなかにも影響を与えている。平和の宗教なにそれ美味しいの?安心立命とは心だけの問題ではない。

友岡雅弥『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』(第三文明社、2000年)
本書は、「仏教」のあり方を「人間ブッダと出会う」かのように現前させようと企てたスリリングな一冊だ。前半では「ブッダと弟子たちの対話」を通して、当時の人に「どのような角度と強度で、衝撃を与えたか」を辿る。後半では、「ゴータマ・ブッダの出現の歴史的、社会的意義」を現在の視点で蘇らせていく。
読者に「眼前のブッダの歩み」を、おいかけ、よりそい、「自ら歩めるよう」に、そして「ブッダの言葉」に、耳をそばだて、受け止め「自ら語るよう」に問いかけてくる。著者の筆使いは、ブッダの言葉をよみがえらせるだけでなく、私たち一人ひとりの思索と行動に火をつける。(改行) ブッダは歩むブッダは語る……。それは私自身が歩み語ることでなくてはならない。

ヤコヴ・M.ラブキン(菅野賢治訳)『トーラーの名において シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』(平凡社、2010年)
現代世界でも1、2を争う人権侵害国家こそイスラエルである。その思想的原理がシオニズムだ。敬虔なユダヤ教徒である歴史学者の著者は、真摯なユダヤ教徒にとって、シオニズムこそ神への裏切りであると手厳しく批判する。国家擁護のためには武力を厭わないことこそ、他者との調和を解くユダヤ教とは根本的に相容れないのだ。

小川原正道『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ 2014年)
本書は戦前日本の宗教政策を踏まえた上で、戦争と宗教の関わりについて俯瞰する一冊。1899年から太平洋戦争の終結まで、宗教横断的にその関わりを明らかにする。警世の反戦論に宗教の例外は殆ど無い。しかしその担い手は全て「個人」であり「団体」はむしろ協力を選択する。暴挙再来の時「宗教者たちは、あるいは我々日本国民は『殉教』の担い手たり得るのか」。その余韻は重苦しく鳴り響き続けている。

パウル・ティリッヒ(ロナルド・ストーン編集、芦名定道訳)『平和の神学 19381965(新教出版社、2003年)
「相関」こそティリッヒ神学の核である。抽象的平和論と平和を放棄する現状容認的な現実主義という不毛な対立を超克するためには、境界に立ち続け、理論と実践の境界で相互に鍛えあげる必要がある。現実の歴史を透徹する眼差しと、平和を展望する信仰者の誠意というティリッヒの両目思考こそ私たちは学ぶ必要がある。

一戸彰晃『曹洞宗は朝鮮で何をしたのか』(皓星社、2012年)
本書では、伊藤博文を暗殺した安重恨の次男が京城にあった博文寺を訪れ、曹洞宗の僧侶から位牌を受けて「報国の誠を誓った」という当時の新聞記事が紹介されている。これを「やらせ芝居」と断ずる著者は、「人権・平和・環境」を掲げる自宗の大戦中の戦争責任に真っ向からむきあおうとしている。

高遠菜穂子『破壊と希望のイラク』(金曜日、2011年)
フセイン圧政で禁じられていた宗派対立は、イラク戦争で解禁された。宗派を問わずイラク人には米国を初めとする「有志連合」への憎悪が残った。各国のテロの原因はイラク戦争にあると著者は言う。2004年、現地武装勢力に拘束され、解放後、日本人からバッシングを受けた。PTSDになっても、現在まで現地支援活動を続けている。人を救うとはどういうことか。イラク人との対話を重ねる姿に考えさせられた。

長崎県南島原市 (監修) 『原城と島原の乱有馬の城・外交・祈り』(新人物往来社、2008年)

この本は、シンポジウムの記録集として出版されました。様々な人が島原の乱の歴史的意義を述べてますが、ヨゼフ・ピタウ司教の「信仰を公にすれば迫害されるというなかで、十字架を作っていた南島原の人たちの信仰は、民主主義のはじまりです」との言葉は、日本思想史において記憶されるべきです。

岡崎匡史『日本占領と宗教改革』(学術出版会、2012年)
神道が敗戦後にGHQによって問題視され政治問題として扱われるに至った経緯を、それに関わった人の思想的背景にまで踏み込んで詳述している。特に政教分離が民間情報教育局バンス課長のバプティスト的理想主義に拠るとの指摘は、非常に興味深い。どんな歴史も、人間の思想の反映であることを忘れまい。

ラス・カサス(染田秀藤訳)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫、1976年)
セプールベダ(染田秀藤訳)『第二のデモクラテス 戦争の正当原因についての対話』(岩波文庫、2015年)
植民地支配の端緒となった大航海時代、インディオに対する征服戦争を告発した司教ラス・カサス。そしてインディオの奴隷利用の正当化を主張したカトリック神学者セプールベタは好対照をなしている。暴力を肯定する原理を、そして暴力を否定する原理を宗教から導き出すのは「人間」である。
 西欧の植民地支配を正当化する原理をキリスト教から、アジアの太平洋支配を正当化する原理を仏教から導き出したのも「人間」である。インディオは人間でないと認定するのは誰か。それは「人間」である。インディオへの暴力に抗うのは誰か。それも「人間」である。「人間」の掲げる「正義」ほど人間を魅惑するものは他にはない。しかし「人間」の掲げる「正義」ほど人間と道理を屠るものは他にはない。
 私たちは、「人間」の掲げる「正義」よりも、永遠普遍の真理に襟をただしながら、相対的歪曲を退けながら、生きていくほかないのではあるまいか。人類は長い年月をかけて「征服戦争は是か非か」をめぐって論争してきた。しかし、あらゆる暴力こそ、人間を破壊し、人間が大切にする理想までも毀損してしまう以上「是か非か」という以前に立ち続けなければならない。いかなる言辞で取り繕うが、「暴力」を「正当化」した時点で、それは宗教の自殺行為である。