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選書プロジェクト 第10号

ネットプリント番号:24196177(3月30日)



国境を越える結びつき

 中国への留学が、共産圏への敵視から白い目で見られていた頃、ある学生が留学から一時帰国し、語った。
「どんどん中国へ留学生を送ってください。日本が二度と戦争しないためには、友達をつくる。それしかないんです」
留学生が人材として期待され、留学先に関係する国際的な仕事に就くことが当たり前のように思われていた時代、留学から帰ったあと、地元の家業を手伝うことを選んだ学生が言った。
「私は語学を使う機会のない地元に戻ります。私がこれからするのは、国際的な仕事ではありません。でも、私の故郷の人たちに、私が友情を結んできた遠い土地の友達のことを語り続けます。それが私の世界平和への道です」
 ひとりひとり、国境を越える取り組みは違う。ひとりひとり、自分が出来ることをしようとしている。
「国境を越える」。実は簡単なことだ。なにが起きているのかを知る。そして、共感する。時には涙を流す。そのひとたちの心中を思って憤るときもある。知り合いでもなく、身近でもなく、でも、同じ地球の上で呼吸をしている「人間」として。
 そうした共感は、小さなことかもしれない。でも、ひとり一人が小さな共感の蕾を、淡く儚い友情の花へと開かせていくなかで、世界のあちこちで、万朶の平和の桜が咲き薫る、そんな春が来ることを夢見ている。
 春4月。

創価大学では、周恩来を偲んで植えられた周櫻が開花し、満開の花のもと、周櫻観桜会が開かれる。かつて創立者が周恩来と会見し、日中友好の未来を託された、その深い思いを、年々歳々、たくさんの人が周桜の前に集い、祝い、歌う。
 「時は去り 時は巡り
  現(うつ)し世に 移ろいあれど

  縁(えにし)の桜は 輝き増して

  友好の 万代なるを 語り継げり

  我も称えん
心の庭に 
  友誼(ゆうぎ)の桜は 永遠なりと」
  (「桜花の縁(えにし)」)
 これを読むあなたは、いまどんな縁の桜を咲かせようとしているだろうか。さあ、始めよう。冬を終わらせよう。 


伊藤和子『人権は国境を越えて』(岩波ジュニア新書、2013年)
本書は「ヒューマンライツ=ナウ」を立ち上げ人権問題に関わり続けた著者がその活動の履歴を綴った一冊。「ニュースを注意して読むこととか,自分で調べてみるとか」小さな一歩が大きなちからになる。人権と聞けばどこか遠くの問題と意識しがちな日本社会。著者の活動の記録は、人権とは全ての人に関わることを気がつかせてくれる。また、「なんとかしたい」と思いを抱く人は多い。その心をどのように形に変え行くのか。本書のその一つの参考になろう。

原田敬一『兵士はどこへ行った 軍用墓地と国民国家』(有志舎、2013年)
国民を創造する国家は死を記念・管理せざるを得ない。本書は緻密な実証と丹念なフィールドワークから戦死者の追悼・慰霊・顕彰・記念を検証、著者の広範な取材はその成立と構造を的確に論証する。軍用墓地とは、軍が設置し、維持・管理した軍人の墓地のことで、時に感情の摩擦の導火線となる。軍用墓地と国民国家の共犯関係を学べば学ぶほど、人為的につくられた「違い」の無意味さが理解できる。

川島緑『マイノリティと国民国家 フィリピンのムスリム』(山川出版社、2012年)

イスラーム・マイノリティは、従来は国民国家の側から記述されるばかりであったが、イスラーム運動の側から国民国家をみるという視点からフィリピン現代史を描き出す挑発的な一冊。フィリピンのムスリムと一口に言っても実態は多様で、政治的傾向のみならず、地域、社会、家族、個人などによって様々である。そして筆者の報告からは、紛争はもうたくさんだという人々の声が伝わってくる。筆者は女性の教育に期待をかけて本書を結ぶ。地域社会における「公正」観念を考える上でも必読である。

司馬遼太郎『菜の花の沖』(文春文庫 2000年)
「江戸時代で誰が一番偉いかといえば、 私は高田屋嘉兵衛だろうと思う。 それも二番目がいないほど偉い」と司馬遼太郎に言わしめた嘉兵衛は、日露の外交の犠牲になりつつも運命に甘んじず、積極的に友好の架け橋となろうとした信義の人として描かれている。幕府には彼を受け入れる度量が無かったが。

ミシェル・ワルシャウスキー(脇浜義明訳)『境にて イスラエル/パレスチナの共生を求めて』(柘植書房新社、2014年)
 「越えてはならない国境もあれば、むしろ破るべき国境もある」。本書はマツペンを経てAICで反シオニズム闘争を続ける「国境をアイデンティティとする革命家」の半生記だ。シオニズムを知らずアラブを脅威としか感じないナイーヴかつ敬虔なユダヤ教青年が、イスラエルに渡り、同地の最左翼ともいうべき反シオニズム闘争を続ける原点は、故郷ストラスブールのユダヤ人コミュニティでの体験に由来する。
 ホロコーストの追悼行事の折り、ニガーという差別用語を何気なく使って大人から強打された。そこから「貧しい人々、弱い人々、身分の低い人々に自分を一体化させるのは、私のユダヤ人アイデンティティの一部となっていた」という。著者はイスラエル本国のホロコースト・アイデンティティの限界をユダヤ人中心主義に見て取る。人道に対する罪の認識がないから、ナチと同じような残虐行為をパレスチナ人には平然と行い、批判者を「ナチ」と罵倒するのがイスラエル・アイデンティティである。
 「他者である非ユダヤ人も被害者になり得ることを認めることが、シオニズム言説と袂を分かつ重要な一歩である」。
 アンチ・テーゼ関係にある価値観の間には通行不可能な国境があるが、人や文化の交流や共存を禁じる国境は否定すべきである。
 著者の常人ならざる歩みは、まさに「過激」といってよい。しかし「過激」にならなければ、“常識のドクサ”が秘めるより重大な暴力性を暴くことは不可能である。柔軟かつしなやかに現世の重力を撃つ、今読むべき1冊。

野村真理『隣人が敵国人になる日: 第一次世界大戦と東中欧の諸民族』(人文書院、2013年)
帰属意識も疎らな多民族混淆地域の東部戦線は「隣人が敵国人になる」日であった。言語や宗教の異なる諸民族が複雑に入り組む東中欧。ゆるやかな連合としての帝国の崩壊は、民族自決と国家形成の理念を掲げつつも、多様な人々を置き去りにすることになった。国民国家の意義を逓減しつつある現在、国家=民族である必要はないが、民族であることと、国民であることから置き去りにされる歴史を振り返る本書は、近代とは何かを教えてくれる。

雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』(光文社新書、2008年)
個人の自立と共同体の紐帯が声高に叫ばれる時にこそ私たちは時代精神に警戒しなければならないのではあるまいか。個と全体におけるモラルの強調は現実をごまかすだけだ。必要なことはストロングタイではなくしてウィークタイ。人間が弱い生き物である事実から出発し、どのような創造的共同が可能なのか智恵を絞るしかあるまい。ストロングタイは一瞬のカンフル剤にはなり得るが、99%の人間は生きづらさを感じざるを得なくなる訳だから、麻薬だ。差異の自覚と相互尊重と共同は、何も国家間・民族間の問題に限られない。

岩下明裕『領土という病』(北海道大学出版会、2014年)

領土問題は全て政治的に構築された産物であり、ひとは常に「領土の罠」に穽っている。領土ほど自明のように映りながらその実空虚なものは他にはないからだ。本書はボーダースタディーズの立場から「領土という病」の治療を目的に編まれた挑戦的な試みだ。著者は沖縄こそ「日本最大の領土問題」とは何か。著者は主権が分断された沖縄だと指摘する。深く頷くほかない。


テッサモーリス=スズキ(伊藤茂訳)『日本を再発明する: 時間、空間、ネーション』(以文社、2014年)
私たちが自明と考える日本についてのほとんどのことは、明治(国家)に一度「発見」されているから「再発見する」必要があるのではないか。本書は自明視された均質な日本なるものを覆し、複数の伝統が時間と空間の中で織り直され境界線を越えていく姿を展望する。グローバル時代の日本研究の基本書は、近代という「設定」の限界を示している。



ベネディクト・アンダーソン(加藤剛訳)『ヤシガラ椀の外へ』(NTT出版、2009年)
 本書はナショナリズム研究の第一人者が、その軌跡を振り返りながら、学問とは何か縦横に論じた一冊だが、抜群に面白い。学問で重要なのは、大学の制度や母国といった「ヤシガラ椀」の外に出ることだ。中国昆明市で生まれアイルランドを経て米国へ。常にマジョリティの中でマイノリティとして“揉まれる”生涯であったと言って良い。「根っこの欠如、強固なアイデンティティの不在」だが、同時にそれは「愛情の対象が多数存在していた」ことを意味し、そのことがマルティプルなナショナリズムを育んだ。「ナショナリズムやグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放の可能性を洗練された形で融合させること」がこれまで以上に必要となる。
 インドネシアやシャムには「ヤシガラ椀の下のカエル」という諺がある。半分に割ったヤシガラをお椀として使うが、不安定な椀に間違って飛び込んだカエルは中に閉じこめられ、抜け出すことが出来ず、カエルの知る世界は狭い椀の中だけになってしまう。「カエルは、解放のための闘いにおいてヤシガラ椀のほか失うべき何ものも持たない。萬国のカエル團結せよ!」。

モラエス『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』(講談社、1998年)
異文化の中に美点を見出す。簡単なようで極めて難しい仕事を、徳島を終のすみかとして選んだポルトガル人モラエスは成し遂げた。ポルトガルへの郷愁(サウダーデ)を含んだ優しい視線を、目前の徳島の文化に向けたモラエスだから成し得たことだろう。異文化への敬意と愛情がいかに人を美しく生かすか。

鎌田遵『ネイティブ・アメリカン-先住民社会の現在』(岩波新書、2009年)
先住民族は、三度にわたって追いたてられてきた。軍事によって、同化政策によって、そしてグローバル経済によって。アメリカ・インディアンと呼ばれてきたアメリカ先住民の歴史は、まさにその典型である。追い出され、収奪され、ついには囲いこまれる。しかし、今や世界の先住民主たちは声をあげはじめた。彼らの歴史は、近代と強者の傲慢に対する反省を我々に突きつけている。

浪川健治『アイヌ民族の軌跡』(山川出版社2013年)
近代初期までのアイヌ民族の歴史を通観し、アイヌ民族のアイデンティティを確認しようとしている。本書は、最新の研究を踏まえて、少なくとも地方において、アイヌの人々が古来から主体的で統合された活動をしてきたことを明らかににしている。幕府などの支配者側が設定した「日本」という観念枠を越えて、東アジア地域に位置付ける試みもされている。1997年に「アイヌ文化振興法」が成立して以来、アイヌ民族をめぐる研究と言説が激増してきた。詳細が明らかになった反面、マイヌ民族に対する否定的な意見も目立つようになった。鍵は、「民族」という言葉にあるのではないだろうか。異質を忌避する傾向の否定派にとって、「民族」は癇にさわるのだろう。しかし、アイヌのうち少なくない人々は、民族の語に主体性とアイデンティティの意味を込めて使用してきた。否定派の狭隘なヘイト感情を越えて、アイヌ民族の存在は日本の社会と文化を豊かにしてくれるだろう。

宮島喬・鈴木江理子『外国人労働者受け入れを問う』(岩波ブックレット、2014年)
少子高齢化のゆえに労働力人口の減少が予測され、外国人労働者の受け入れが政策として提起されている。しかし、その裏で、外国人労働者は来てほしいが「移民」は避けたいという意識がうかがわれるのはいかがなものか。本書の問題意識をー言で言えば、こうなるだろう。「期限つき」を前提した入管や一部外国籍の人々をターゲットにしたヘイトスピーチなど、「多様さ」を忌避する現状に挑む著作たちの強い意識が伝わってくる。介護労働が「単純労働」扱いされているにも現状、「研修」や「実習」や「国際貢献」の名の下に、劣悪な環境に置かれがちな若年外国人の問題、実態としては「移民国」になりつつあることなど、短いながらも多くの重要な課題を要領よくまとめてくれている。お勧めする所以である。


選書プロジェクト 第9号

ネットプリント番号:75366581(3/16まで)


 
3・11以後の私たち

あの日、まだ学生だった私は、旧友との食事を楽しんでいました。246分、爆発的な揺れは、私たちに「机の下に隠れる」という小学校からよく訓練された動作を促します。「余震が収まれば、昨日と何も変わらない日常が戻るだろう」とのバイアスは、凶暴な津波が一つの街を消滅させる映像によって、瞬間に矯正されました。
私に助けを求める電話は途切れがちに首都圏の混乱を伝えます。信号機が全て黒を示す不気味な都内を、友人たちを乗せて一晩中運転しながら、カーラジオから聞こえる惨状に無言で耳を傾けました。
翌日、原発事故のニュースが恐怖を煽る中、政治家は「直ちに影響はない」と繰り返しました。直近の予定が潰れた私は、本当の事が知りたいと調べ続ける内に、この国のあまりに無責任な「差別」の構造に気づくことになります。原発立地の問題も、最終処分場の問題も、限りある資源の問題も、地方や未来へと負担を押し付け続けてきたこと。その裏で、利権を貪る「ムラのエリート」の懐は潤い続けてきたこと。
「この国は一体どうなってしまうのか…」私は漠然とした不安を抱えながらも、ボランティアに通いつつ、脱原発の社会運動を微力ながら応援し、学び続けることを決めました。そして今もその姿勢は変わっていません。「311」は私の生きる世界を確実に変えました。
あれから5年。日本もまた変わりつつあります。大衆運動を通して民主主義が回復され動き始め、国民蔑視の政治家は炙り出され始めました。自分が変われば周囲が変わる。周囲が変われば世界が変わる。この法理を確信しながら、私たちは進んでいきましょう。
「日本のとるべき道として、原子力発電に依存しないエネルギー政策への転換を早急に検討していくべきです。そして、再生可能エネルギーの導入に先験的に取り組んでいる国々と協力し、コストを大幅に下げるための共同開発などを積極的に進め、エネルギー問題に苦しむ途上国で導入しやすくなるような技術革新を果たすことを、日本の使命とすべきではないか。(中略)いずれの問題も容易ならざる困難を伴うものですが、無限の可能性を秘めている民衆一人一人の力を結集することで、解決への道は必ず開くことができると確信しています。」
(池田大作 第37回「SGIの日」記念提言「生命尊厳の絆輝く世紀を」[2012126]

多田富雄『寡黙なる巨人』(集英社文庫、2010年)
本書は脳梗塞で倒れた世界的免疫学者の著者によるリハビリ闘病を綴ったエッセイである。病魔という抗いがたき深苦を前に、人間はどのように困難と対峙し、受け入れ、克服していくのか――「寡黙なる巨人」は、そのプロセスを見事なまでに教えてくれる。「死ぬことなんか 容易い 生きたままこれ を見なければならぬ」

SGI提言からの抜粋>
 2年前に逝去した世界的な免疫学者の多田富雄氏は、67歳の時に突然の病気に襲われ、やりかけていた多くの仕事を断念しなければならなくなりました。
 その時の衝撃を、後に氏はこう述べています。
 「あの日を境にしてすべてが変わってしまった。私の人生も、生きる目的も、喜びも、悲しみも、みんなその前とは違ってしまった」「考えているうちにたまらない喪失感に襲われた。それは耐えられぬほど私の身を噛んだ。もうすべてを諦めなければならない」(『寡黙なる巨人』集英社)
 人間にとって仕事とは本来、自分が社会から必要とされている証しであり、たとえ目立たなくても自分にしかできない役割を、日々、堅実に果たすことで得られる誇りや生きる充実感の源泉となるものです。
 まして、災害によって家や財産の多くを失い、過酷な避難生活を強いられた上に、仕事を失うことは、生活を再建するための経済的な命綱が立たれるのと同時に、前に進む力の源泉となる生きがいを失わせ、復興への精神的な足がかりまで突き崩される事態につながりかねません。
 だからこそ、被災した方々が少しでも生きる希望を取り戻せるよう、住む場所や仕事の変更を余儀なくされた人たちが“心の落ち着く場所”をあらたに得られるよう、そして「心の復興」「人生の復興」を成し遂げることができるよう、支え続けていくことが、同じ社会に生きる私たちに求められているのです。
【第37回「SGIの日」記念提言「生命尊厳の絆輝く世紀を」[2012126]

イバン・イリイチ(デイヴィッド・ケイリー編、高島和哉訳)『生きる意味 「システム」「責任」「生命」への批判』(藤原書店、2005年)
現代社会を根源的かつ創造的に批判する思索と実践においてイリイチのの右に出る者はいない。教育、医療、労働と生産、そして宗教と生命、多岐に渡る論題は、イリイチの思索が全てを俯瞰していることを意味している。全ての問題は有機的につながっているが、うろたえる必要はない。無力さに踏みとどまることが光明になる。

SGI提言からの抜粋>
 「けっしてあきらめてはいけない。人が行きているかぎり、灰の下のどこかにわずかな残り火が隠れている。それゆえ、われわれのすべきことは、ただ」「息を吹きかけなければいけない……慎重に、非常に慎重に……息を吹きかけ続けていく……そして、火がつくかどうか確かめるんだ。もはや火はつかないのではないかなんて気にしてはいけない。なすべきことはただ息を吹きかけることなんだ」(イバン・イリイチ、高島和哉訳『生きる意味』藤原書店)
 これは、後にブラジルで最も無慈悲な拷問者となる将軍との対話を試みたカマラ氏が、将軍との話を終えて、イリイチ氏の前で完全な沈黙にしばし陥った後、語った言葉でした。
 つまり、自己の信念と敵対する人物との対話が破談した後、“それでもなお、私はあきらめない!”と気力を奮い起こした言葉ですが、一方で私には、絶望の淵に沈むそうになっている人々に心を尽くして励まし続けることの大切さを示唆した言葉でもあるかのように胸に響いてきます。
 敵対者に対してであれ、仲間に対してであれ、一人一人の魂に眠る“残り火”に息を吹きかけていくエンパワーメントは、ガンジーやキング博士による人権闘争をはじめ、冷戦を終結に導いた民衆による東欧革命や、最近の“アラブの春”と呼ばれる民主化運動においても、大きなうねりを巻き起こす原動力になったものではないでしょうか。
【第37回「SGIの日」記念提言「生命尊厳の絆輝く世紀を」[2012126]

池田大作/ルネ・ユイグ 『闇は暁を求めて』(聖教文庫 2000年)
世界的芸術家と人類的課題を縦横に語り合う著。「原子カエネルギーの開発と実用化は、その目的がたとえ平和利用であっても、慎重に考慮すべきである」「絶対的に、永久的に安全な、廃棄物の処理法が発見されれば、そのとき初めて利用を再開してもよい」と池田が警鐘を鳴らしたのは30年前。自然との協力関係の中で人類が生き延びるためには、エゴイズムというカルマと徹底して立ち向かう他ない。「金は一年、土地は万年」に流れる感性とも響き合いながら。

大熊信行 「国家悪 人類に未来はあるか (潮出版社 1974年)
経済哲学の大家、大熊信行は戦前の戦争協力を自己反省し、戦後は国家と人間との深層の対立を洞察した。大熊にとって<国家悪>とは外部暴力だけではない。それは人間の内面の恐怖に本質がある。彼は言う。「国家悪との対決者たることが、現代人の人間としての運命だ」。「兵役拒否・参戦拒否の自由のないところに、人権としての自由権があるなどという考え方が、納得いかないのである。」平和憲法の黎明期に現れた、国家主義批判の古典。

戸田山和久 「「科学的思考」のレッスン―学校で教えてくれないサイエンス」NHK出版新書365 2011年)
科学に対する市民の立場として、ここで提案されている事柄は2つの次元から成っている。ひとつには、情報を適切に処理する(知り、考え、評価する)こと。ふたつには、科学専門家とは違う視点で問題を提起すること。著者によれば、科学はある種の事柄を「系統的に無視する」性質がある。市民は、科学者が無視しがちな問題(トランスサイエンスの一部)を問題にすること(フレーミング)ができる。とはいえ、科学者・専門家が免責されるわけではない。専門家も別の専門に対して素人であり得る。科学者自身のリテラシーもまた、問われるべきである。

高橋哲哉 「犠牲のシステム 福島・沖縄」(集英社新書 2012年)
経済成長も安全保障も、高橋さんの言う「犠牲のシステム」に依存してきた。そこでは、或る人々の利益が他の人々の犠牲によって生み出されている。しかも、犠牲は隠蔽されるか、美化される傾向にある。利益を得ている者(犠牲にする側の者)は、責任から逃れやすくなっている。沖縄も、福島も、そして「靖国」も、日本社会に組み込まれてきた「犠牲のシステム」を体現した問題群なのだ。福島の原発事故は、明白に「人災」である。責任者がいるはずである。「安全神話」を言い立ててきた人々が追及されるべきだ。これ以上、犠牲のシステムを許してはいけない。 

安冨 「原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―」(明石書店 2012年)
「東大話法」とは、東京大学(の教授連)に典型的にみられる「都合の良い思考や言説の傾向」のこと。もちろん何も東大に限った話ではなく、いたるところで「エリート」たちがやっていることである。20項目あります。例えば、「自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する」。「都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする」。「どんないい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す」。「自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する」。「スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる」、など。ふだんからこんな話法で語っていると、本当のことや人間として大切なことを忘れていく。権力は「言葉」を都合よく言い換えて支配するものである。「事故」を「事象」に、「隠蔽」を「保安」に、「長期的には悪影響がある」を「ただちに悪影響はない」に。権力に与る人々のこうした性質はこれまで巧妙に隠蔽されてきた。あなたの身近にもいませんか?

豊田直巳、野田雅也監督『遺言 ー原発さえなければー』(映画『遺言』プロジェクト 2014年)
タイトルになった「原発さえなければ」という言葉は相馬市で自殺した酪農家の方が、自殺現場に書き残した言葉である。離散した家族、手を掛けても出荷できない牛乳。家族として育てた牛との別れ。もし、私の大事な人が同じ立場だったら…「原発さえなければ」被害をこれ以上出さないためには、都会の人間が遠い世界のことと捉えずに自分のこととして考えることからしか償いは始まらないのではないか。

東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会 吉田調書(政府事故調査委員会ヒアリング記録)(内閣官房ホームページ 2014年)
原発を津波が襲い、未曽有の事態が訪れたとき。現場で、緊急対策室で、東電本店で、政府官邸で、誰が何を考え、何を判断し、何を行ったのか。吉田所長自ら、記憶が曖昧だったり感情的になる局面もあったことから、発言の独り歩きを懸念していたことは十分心得たうえで・・・エネルギー政策や緊急事態条項について語る前に必ず読むべき証言と思う。

山下祐介・市村高志・佐藤彰彦『人間なき復興 原発避難と国民の「不理解」をめぐって』(明石書店、2013)
富岡町から避難した被災者の声を社会学者が掬い上げ、その現在を報告する一冊。あの日、私たちは「以前」と訣別したはずだが、気が付くと同じ轍を踏もうとする。「不理解」が「人間なき復興」を招き寄せているのではないだろうか。複雑な事象を数値によって平準化し「復興」は進んでいるかのように見えるが、何のための経済成長なのか。

『現代思想 20163月号 特集=3.11以後の社会運動-交差する人々』(青土社 2016年)
近年の雇用や経済に対するグローバルな不安は、アラブの春やオキュパイ運動を始め、スペインやギリシャ、香港や台湾、そして日本でも自然発生的な大衆運動を生み出してきた。「デモで社会は変わらない」という批判そのものに、社会の変化が現れていると思う。あれから5年、この国で胎動し始めた民主主義を理解するのに必読。

金菱清 『震災学入門ー死生観からの社会構想』(ちくま書房 2016年)
被災者自身の目線に合わせて東日本大震災を描いた新書。テーマは防潮堤、カウンセリング、慰霊碑、原発事故など多岐にわたるが、一貫して貫かれているのは弱者の論理である。先祖代々の土地で土を耕し、海の恵みで生きてきた方々に、リスク除去の観点から移転を安易に勧めるのは都市・強者の論理なのだと気づかされた。

河合弘之監督 「日本と原発 4年後」Kプロジェクト 2015年)
脱原発訴訟を率いてきた弁護士、河合弘之氏自らが監督した福島第一原発事故の関係者によるドキュメンタリー作品。原発推進側、反対側、近隣住民へのインタビューと、核燃料サイクルなど原子力発電の仕組み、原子力ムラの構造についての解説で構成されている。前作「日本と原発」、著書『原発訴訟が社会を変える』(集英社新書)と合わせて必見。

DAYS JAPAN 3月号 特集 チェルノブイリ30年・福島5年』(デイズ ジャパン  2016年)
発行人、広河隆一氏の現地取材の特集号。チェルノブイリでは現地救援スタッフの病状、廃墟となった街の写真が掲載され、福島では帰宅困難区域に一時帰宅した女性のインタビューが掲載される。思い出深いものも「子供が触ったら危険だから」と置いていかざるを得ない。別の女性は「いまだに自殺するひとがいるんです。私の知り合いのおばあちゃんも、先月自殺しました」と語る。生業訴訟の原告弁護士は避難者と現在福島に住んでいる原告との壁について、「みんな被害者なのだから。国が線引きをして、被害者同士で争わせようとしているのは許せません」と訴える。原発は生存権を奪い、故郷を廃墟にし、分断を生む。

ウルリッヒ・ベック(山本啓訳)『世界リスク社会』(法政大学出版局、2014年)
人類は危機に対処すべく社会を形成してきたが、満ち溢れたリスクにもはや現代社会は対応しきれないのがその実相である。21世紀の今とは「言語と現実が乖離した社会」である。戦争、経済、そして生態系の危機……全てはグローバルな協力体制抜きには解決しきれない。枠内論理への撤退ではなく共通認識への跳躍へ。そこに鍵がある。

トム・ギル編『東日本大震災の人類学 津波、原発事故と被災者たちの「その後」』(人文書院、2013年)
本書は外国人日本研究者たちが被災地に赴き出会った人とその生活についての記録である。「自分の手で記念碑を建てた」被災者が多いと言う宗教学のN・ピーターソンは、日本人の宗教性が没個性的集団的との印象を退け、その個人的宗教性の強さを報告する。出版から3年、「3・11は終わっていない」(帯)。

山形孝夫『黒い海の記憶 いま、死者の語りを聞くこと』(岩波書店、2013年)
全てを惜しみなく奪う黒い海。辻褄合わせにしのぎをけずる制度宗教は何の慰めにもならなかった。愛と試練、慈悲と無常……その一言で何の説明になろうか。しかし人々は無意識に紡ぐ「死者との対話」のなかで明日への一歩を踏み出した。本書は自ら被災した宗教人類学者の根源的省察。

稲泉連『復興の書店』(小学館、2012年)
被災した書店は391店(岩手、宮城、福島)、総店舗の約9割だ。本書は全てが寸断された渦中に営業再開させた書店についてのルポルタージュ。人々が求めたのはパンではなく活字だった。本は情報ではなく生活必需品。書店という空間は書物と読み手だけを結ぶ空間と錯視しがちだが、実は人と人を結ぶ「共有できる空間」でもあった。活字の力ここにあり。

吉原毅『信用金庫の力』(岩波ブックレット、2012年)
脱原発宣言で注目を集める信用金庫理事長によるお金の話だ。お金こそ人を生かし殺すもの、その弊害にどう対抗するか。信金は「小さな銀行」ではない。崇高な社会協同という崇高な理念が存在する。本書は「人をつなぐ、地域を守る」(副題)歩みの回顧と展望の一書である。「健全なコミュニティがあってこそ、健全なお金が流れる」。

広瀬隆『東京に原発を!』(集英社 1986年)
原子力発電所が安全だというなら、東京のど真ん中になぜ建てないのか。極めて真っ当で素朴な疑問。東京から離れたところに建てるという姿勢自体が、原子力発電所の安全性に疑義を抱かせるものであることを、広瀬は真正面から突き付ける。欺瞞に満ちた原子力政策を問う書。

堀江邦夫『原発ジプシー』(講談社 1984年) 
初めて読んだのは、大学生の頃だった。原子力発電所の現場に作業員として潜入取材した堀江の筆が語る、余りにも杜撰な安全管理や、誤魔化しばかりの放射線防護に心胆が凍る思いだった。3.11で、それが何も変わって居ないことが露呈した。アベ政治そっくりの体質にあきれる。

長有紀枝『入門 人間の安全保障 恐怖と欠乏からの自由』(中公新書、2012)
概念の提唱から20余年。本書は人道支援の最前線に立ち続けた著者による、その歴史と現在を解説する包括的入門書だ。終章は「東日本大震災と『人間の安全保障』」。弱者にしわ寄せされる被害は、人間の安全保障の問題が海の向こうの世界でない事実を可視化させたといえよう。震災関連死の男女比は女性が上位になる。集約的一書ながら「ここからはじめる」スタートとなるなるのではないと思う。