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選書プロジェクト 第8号

ネットプリント番号:72268649(3/2まで)


民主主義・憲法・立憲主義
 私たちはなぜルールをつくってその社会を運営するのでしょうか。それは人間という生き物が間違いやすい生き物だからです。間違いやすい弱い存在だからこそ、二度と過ちをくりかえさないためにルールを作り、常にその来し方を振り返り、反省する必要があります。
 人間は一人では決して生きていくことが出来ない社会的動物です。異なる他者と協同することでお互いの生命財産、そして人格的価値を守ろうと取り組んできました。人間はその歴史のなかで、一人の人間の価値が守られると同時にその包摂的な共同体が持続できるよう試行錯誤を繰り返してきました。人類が長い時間をかけて抽出してきた叡智の結晶とは何でしょうか。それは憲法であります。
 憲法という規範を立てることを立憲主義と呼びますが、国家(権力)の暴走を縛り、個人の尊重を確立することがその根本に有ります。国家という共同体は人間が集まって暮らし始めてからこの方、暴走しなかったためしはありません。それは運営の制度を問わず、権力のはらむ必然的な宿痾といってよいでしょう。
 私たちは今回、民主主義・憲法・立憲主義 をキーワードに28冊を選書してみました。すでに解釈改憲によって立憲主義を骨抜きにした現在のアベ政治がいよいよ憲法改正を真正面に掲げ、なし崩し的にその雰囲気を醸成しつつある現在、その普遍的な意義を確認するために知性を働かせることは意味のあることだと考えるからです。
 法の支配を無視し「人」が支配する前時代的な野蛮に対峙するためには、どこまでも人類の叡智の軌跡をたどり直し、その暴力をふるい落としていかなければ、議論にすらならないからです。
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簡単に言えば、憲法を学ぶということは、権力者が犯しがちな失敗を学ぶということなのだ。そこには歴史に基づくリアリズムがある。憲法を無視するということは、人類の叡智を無視するということだ。憲法を無視した政策論は、時流に乗った軽率な議論である可能性を疑わねばならないだろう。木村草太(共同討議・國分功一郎)『集団的自衛権はなぜ違憲なのか』晶文社、2015年、272頁。

國分功一郎『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書、2013年)
民主主義のアリーナとは選挙だけなのか。主権は立法権と定義し、議員の熟議で全てが決定されることになっている。しかし実際には統治に関わるほとんどの事柄は行政が執行する。そして私たちは行政権に全く関わることができないのが現実だ。哲学者の著者は民主主義の機能不全に注目し、「参加する社会」に絶えず更新することで、未来を展望する。諦めるにはまだ早い。

尾崎行雄『立憲主義の日本的困難 尾崎行雄批評文集1914―1947』(書肆心水、2014年)
一貫して立憲主義の理想を掲げ、藩閥・金権政治を批判した尾崎行雄。本書はその批評をまとめた一冊だ。一読すると、古くて根深い日本の反立憲主義的心性との闘いが「憲政の神様」の歩みであったことには驚くほかない。規範を無視する人治政治がアベ政治の特色である。道理の支配こそ立憲政治の精神という尾崎の精神を今こそ。

エマニュエル・トッド 『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』 (文春文庫 2016)
シャルリ・エブド襲撃事件に対する「表現の自由」を掲げた大規模デモを取り上げ、普遍的な価値の喧伝に潜む排他性を問い質す。視点は変わるが、安保法反対の「日本がテロの標的になる」という声の中にも、排他性(すなわち戦争への親和性)が潜んでないか? 安保法に反対する者として、私も自らに問い直す。

ムスタファ・シェリフ(小幡谷友二訳)『イスラームと西洋 ジャック・デリダとの出会い、対話』(駿河台出版社、2007年)
個性を尊重しそれが保証される普遍性を立ち上げることは果たして可能なのか。本書はイスラーム学者と哲学者デリダの対談だがその可能性が縦横に検討されている。要は「差異の原理、他者性への敬意、これらは文明の根源」であること。自己批判と改善可能性を受け容れることに軸足を置く「来るべき民主主義」がその個性を保障する。イスラームと西洋の対話は、洋の東西を超えて民主主義再生のヒントとなろう。

ジョン・デューイ(阿部齊訳)『公衆とその諸問題 現代政治の基礎』(ちくま学芸文庫、2014)
機械化と画一化を特徴とする現代社会において、人間の息吹汲み取る民主主義は可能なのか。デューイは情報の公開と共有を強調、その基礎の上に成り立つコミュニケーションによる連帯、そこから立ち上がるアソシエーションと習慣による社会の内在的変革に民主主義の可能性を見出す。原著は1927年、今読むべき本。

古谷経衡           「ネット右翼の終わり ヘイトスピーチはなぜ無くならないのか」(晶文社 2015
保守の側から保守の劣化を嘆く書。映像世代で情報リテラシーの低いネット右翼と大メディアの温室で堕落した上流保守の癒着こそが病理。ヘイトスピーチと反知性主義を厳しく批判し、保守の側からネット右翼を正すことを提唱。ただ、著者の言うソーシャル保守は、もはやリベラル?

山口二郎『いまを生きるための政治学』 (岩波書店、2013)
 社会的存在としての人間は政治を不可欠とする。諦めでも熱狂でもなく、いかに関わればよいのか。本書は「困難な時代を生き抜き、人間の尊厳を守る世の中を作り出すための指針」を具体的に検討。文明論的視座から政治学を新しく構想する。
 1990年代を時代の転換点と捉えた上で、戦後日本社会の歩みと変節と現状を分析。政治(学)と民主政治の意義を考察した上で、その実践の方途探る。知ると動くの二部で本書は構成されている。
 「人間は不完全な存在である」--。この事実から出発し、その協同を維持・持続・発展させるのが政治といってよい。著者は人間の本性を踏まえた上で、これまでの失敗や具体的な現状を取り上げ、その営みを私たち自身の事柄へと取り戻そうと本書で果敢に試みる。
 著者の提案は政党政治が理念や理想で結集するという基本に返れという極めてシンプルなものである。その遂行にあたっては先鋭的理想主義に傾くなという。何より大切なのは私たちが「声(voice)を出す」こと。虚偽を激しく撃ち、参加と熟議促す必携の一冊である。

小林多喜二 『蟹工船・党生活者』(新潮文庫 1954)
戦前の政治社会を描いたこれらの作品は、過去にあった反ユートピを描いていると言ってもよい。しかし、21世紀に生きる我々は、それを人間性を回復する戦いの歴史として読むべきである。小林多喜二の作品は、左翼の教科書の公式ではなく、魂の楽観主義の古典。

渋谷秀樹『憲法への招待 新版』(岩波新書、2014年)
24の問いに答える形で、日本国憲法の思想と骨格を平易に解説する「市民のための憲法入門」。日本国憲法に通底する精神とは「一人ひとりを個人として尊重することに一番価値を置くことを前提に一貫して組み立てられている」ことだ。憲法の本質と人類普遍の原理を知らぬまま思い込みで論じる論調が多い中、その本質を浮き彫りにする本書をはじめて学ぶ人に手にとって欲しい。

内山 奈月 , 南野 『憲法主義: 条文には書かれていない本質」 (PHP文庫 2015)
憲法全文を暗唱した高校生アイドルと憲法学者のやりとりを対話形式で収録。立憲主義(Constitutionalism)を原義に則して現代的に表現した「憲法主義」の表題からも汲み取れるように憲法条文にこめられた理念をわかりやすく解説。中高生から親しめる「知憲」のための入門書。

ロバート・A・ダール著、高畠通敏・前田脩(訳)『ポリアーキー』(岩波文庫 2014)
原著の副題は「参加と異議申し立て」。ダールは、理念としての民主主義とは区別して、ポリアーキーという言葉を考えた。それは、制度としての民主主義の測定モデルである。鍵は、政府や権力に対してどのような異議申し立てのチャンネルがあるか。民主主義の要は、意見を言う勇気である。

伊藤真『現代語訳 日本国憲法』(ちくま新書、2014年)
本書は長らく法曹教育に携わってきた著者による日本国憲法と大日本帝国憲法の現代語訳。近現代日本の性格を規定した二つの憲法を読み返すことで、この国の過去、現在、未来が浮かび上がる。条文ごとに解説付き。憲法の基礎的知識習得の上で必携の一冊。憲法を立てる意味とは(=立憲主義)「憲法の価値は個人の尊重(尊厳)にあり、憲法は国家を縛るための道具」。安倍首相に是非読んで欲しい。

黒田充 『マイナンバーはこんなに恐い! 国民総背番号制が招く“超"監視社会』 (日本機関紙出版センター 2016
導入されてしまったマイナンバー制度に怒りを持ち、反対運動を続ける人たちが問題にしているのは、国家による情報統制だ。しかも、その情報が「戦争する国」になった日本の政府に悪用される恐怖は、計り知れない。マイナンバー導入で、どんな危険が生じるのか、その本質と国の目論見を鋭く突く書。

香山リカ 『ヒューマンライツ: 人権をめぐる旅へ (ころから 2015
この対談集に一本通った芯は、人権侵害に対する怒りだ。怒ることができるのは、それが他人事ではなく、いつでも自分の身に起こり得る悲惨事だとよく分かっているから。そう、わかっているからこそ、行動する。香山さんがそうであるように。それにひきかえ、行動を伴わない人の無責任さはどうであろう。

栗山尚一 ほか 『外交証言録 沖縄返還・日中国交正常化・日米「密約」』 (岩波書店 2010
国民主権を否定するかのような妄言が国会議員の口から出る風潮はどこから来たのか。ここに暴露されたような情報の国家統制の歴史が、政治家の傲慢を招いたことは明らかだ。主権を秘密主義的な権威から取り戻すためにも、一体なにが陰で行われてきたかを知る必要がある。任せたら、騙されるだけだ。

宮本太郎 『生活保障 排除しない社会へ』(岩波新書 2009
日本の雇用の現状を「排除」という概念を用いて考察する視線の根源には、深い憂慮と怒りがうかがえる。国の政策によって劇的に増えつつ有る非正規雇用の悲惨を考えた時、この本のように長期的ビジョンを元にした希望の持てる生活保障のありかたこそが、真の意味での「対案」として提示されるべき。

セヴァン・カリス=スズキ 『あなたが世界を変える日―12歳の少女が環境サミットで語った伝説のスピーチ』 (学陽書房 2003
12歳のこの少女が環境サミットで勇気あるスピーチをしてから20年以上が経過したいま、私たちは彼女の勇気に応えるほどの世界を作って来れたのだろうか?この力ある言葉たちに応えられる社会に、いまなっているのだろうか?未来を展望した彼女の希望に、私たちの行動は向かっているのだろうか?

迅作、竹内 好訳 『阿Q正伝・狂人日記他十二編(原題:吶喊)』  (岩波書店 1955年)
この本に収められた作品群に共通する通奏低音は「これ、おかしいんじゃねぇ?!」というやむにやまれぬ「吶喊」である。科挙崩れで格好だけの知識人、貧困の中にいても環境を変えようとせず精神的勝利のみの幻覚に酔う一般庶民、食人思想、纏足や誤った良妻賢母の思想で女性を縛る文化など、当時の中国にも「これ、おかしいんじゃねぇ?!」ということが溢れていた。それを小説という手法によって赤裸々に暴き出すことで譴責を行ったのがこの作品の時代としての功績である。時代、場所は違えど今の私たちにとって魯迅が発揮した反骨精神、長いものに巻かれない考え方は一読の意義を持つものだと思う。今日の私たちを取り巻く状況も「これ、おかしいんじゃねぇ?!」と声を上げねばならぬものがあまりにも多いのだから。
 
香山リカ 『半知性主義でいこう 戦争ができる国の新しい生き方』(朝日新書、2015年)
左の知性主義と右の反知性主義の中間を推奨する。筆者はネットでの知性を欠いたレスに辟易し、精神科医として分析している。「おバカ」がもてはやされ本を読まないことが格好いいという風潮を嘆きながらも軽やかに知性と付きあう生き方を説く。最近の苛烈な筆者の行動を自身で宣言していた書でもある。

ジュリオ・リッチャレッリ監督 『顔のないヒトラーたち』 (ドイツ映画 2014
原題「Im Labyrinth des Schweigens(沈黙の迷宮の中で)」が表しているように、本作で描かれたアウシュヴィッツ裁判以前、多くのドイツ国民はホロコーストを直視しようとはしなかった。自分の友人、家族を糾弾することになるからだ。
「ただ、体制に順応しただけ。そういう時代だったのだ」と言えば、他人に納得はされるかもしれないが、過ちを繰り返す可能性も高い。繰り返さないために過ちを指摘する勇気を持ち続けたい。

半田滋『日本は戦争をするのか 集団的自衛権と自衛隊』(岩波新書、2014年。)
安倍首相が悲願と掲げる集団的自衛権。武器輸出が解禁されNSC設置、秘密保護法制定など、その勢いは留まることを知らない。本書はその虚偽を一つ一つ丁寧に論駁する一冊。人命軽視と責任回避の体質は今も昔も変わらない。為政者が法の支配を無視してやりたい放題にやる人治国家という現状は、ならず者が「俺が法律だ」と支配するが如しだ。

N・アジミ、M・ワッセルマン(小泉直子訳)『ベアテ・シロタと日本国憲法 父と娘の物語』(岩波ブックレット、2014)
「憲法の条文は必ずしも『アメリカの条文』というわけではなく、一九世紀や二十世紀のさまざまな憲法から、多くの示唆と影響を受けている」。日本国憲法に男女平等の原理を書き込んだベアテの父は日本に西洋音楽を伝えた世界的なピアニスト。父娘の理想主義と人間への信頼の人生を生き生きと描く。憲法の実質的改悪、そして女性の人権が毀損されても屁とも思わない人々が次から次へとわき出す現代。手に取りたい一冊です。

長谷川三郎監督 『広河隆一 人間の戦場』(Documentary Japan Inc. 2015)
48年間、パレスチナの取材を続け、レバノン、チェルノブイリ、福島など人間の尊厳が奪われる現場でシャッターを切り続けた、フォトジャーナリスト広河隆一。彼の写真と発行した雑誌がなければ、戦後日本の戦争責任について考えることは恐らくなかっただろう。「ジャーナリストである前に一人の人間」と語る彼の伝える報道を、一市民としてどう受け止め行動するか。民主主義といっても、市民が賢くなる以外に機能させる方法はない。現在上映中なので、私の拙い文章よりも一人でも多く見て欲しいと願う。

辻村みよ子『比較のなかの改憲論 日本国憲法の位置』(岩波新書、2014)
本書は憲法学・比較憲法学の立場から日本国憲法の位置づけや憲法改正手続きの問題を検討する一冊。各国との対比は現行憲法の改正手続きが厳しすぎる訳でもないことや、その背景となる「押しつけ憲法論」の虚偽を明らかにする。必要なことは喧噪に籠絡されず、人権の尊重や平和主義など日本国憲法の精神を活かすことではないだろうか。

東京新聞社会部編『憲法と、生きる』(岩波書店、2013)
本書は連載特集待望の単行本化、「憲法とともに戦後を生きてきた人々の営みの記録」である。権力と妥協しない生き方、人間として最低限の生存を保障されるための戦い、本書で示される人間像は、健康で文化的に生きていく権利を空気の如く保障してきた現行憲法のアクチュアリティを浮かび上がらせる。

自由人権協会編『改憲問題Q&A』(岩波ブックレット、2014)
改憲のたたき台と目される自民党改憲案の何が問題か。憲法と人権について根本的に理解が間違っていること、集団的自衛権の危険性を隠していること、現行憲法の改正手続きの硬性という嘘という4つ。改憲案は民主主義国家でいう憲法などではない。それは権力者によって都合の良い装置へと改悪させることにほかならない。本書は戦後日本の繁栄の根拠となった憲法の価値を再確認できる一冊。

半田滋『日本は戦争をするのか 集団的自衛権と自衛隊』(岩波新書、2014年。)
安倍首相が悲願と掲げる集団的自衛権。武器輸出が解禁されNSC設置、秘密保護法制定など、その勢いは留まることを知らない。本書はその虚偽を一つ一つ丁寧に論駁する一冊。人命軽視と責任回避の体質は今も昔も変わらない。為政者が法の支配を無視してやりたい放題にやる人治国家という現状は、ならず者が「俺が法律だ」と支配するが如しだ。

樋口陽一『いま、「憲法改正」をどう考えるか 「戦後日本」を「保守」することの意味』(岩波書店、2013)
安倍首相が力をいれる憲法改正がなぜ暴挙なのか。本書は明治以来の立憲政治と憲法史の伝統から、その問題点を撃つ。立憲主義と天賦人権論の否定にみられるエスノセントリズムは、保守とは逆の幼稚な根無し草といってよい。「戦後レジームからの脱却」は近代日本の伝統と挑戦の否定でもある。現在の立ち位置を確認し、明日を展望する一冊。


選書プロジェクト 第7号

ネットプリント番号:31284211(2/17まで)


― SGI提言に学ぶ(下) ―

希望とはどこからくるのでしょう?
いつかなりたいものになる。いつか生活が安定する。いつか争わずにすむようになる。いつか穏やかな気持になる。いつか誰からも好かれる自分になる。そして、いつか、しあわせになる。こうしたものが、希望の内実ではないでしょうか。それにくらべて、いまのわたしを考えてしまいます。まだなりたいものになれていない。まだ生活が安定していない。まだ争ってばかりいる。まだ穏やかな気持ちになれない。まだ私のことを嫌いな人がいる。そして、まだ、しあわせではない。日々の空虚さと無力感から、だれか「力あるひと」に自分のしあわせを任せてしまおう、とするのは希望が満足したように思う、最も手っ取り早い方法かもしれません。
では、その力を付託された「だれか」はどうでしょう?その人も同じ人間です。だれか「力あるひと」に頼ろうとするのは、あなたと同じです。こうして、依存の連鎖が生まれていった結果を想像してみてください。そうすると、空虚や無力感など私には無いと豪語する人が最終的に「頼もしい存在」となってしまうでしょう。そのようなひとは、自信に満ちた力強い存在にみえまず。でも、その実は、人間の痛みや弱さへの想像力が弱い、力の信奉者であったことが、多くの歴史の悲劇から私たちが学んできたことです。そうしたひとは、自分の弱さを覆い隠すために、武力や資産といった容易に手に入る「力」で、自らをかためてしまうのです。そして、その人に頼ろうとする人たちも、武力や資産といった「力」を神のごとく思い、自らの空虚や無力感がそれによって無くなったと思ってしまうのです。けれども、本当にそうでしょうか?

希望とは、誰かに託すことによって、いつのまにか消えてしまうものです。自らの足で立つ人だけが、希望を消さずに生き続けることができるでしょう。ここに掲げた書籍は、希望を灯し続けるあなたに寄り添いつつ、その灯火をさらに大きく育ててくれる、わたしたちの友です。それを信じて、わたしたちは今日も読み、書き、語り続けます。そして、それこそが毎年1月26日に発表されるSGIの日記念提言の底流にある大いなる希望だと私たちは信じています。

世界の問題に立ち向かうのは、専門家だけではありません。わたしたちの生活の場そのものが、世界なのです。誰かが何か大きなことをしてくれるのを待つのではなく、わたしたちの身近の小さなことから変えていくことで、かならず世界は変わって行きます。高らかな暁鐘を打ち鳴らすのは、個人としての、あなた自身です。あなたが誰かに託したりしない限り、希望は消えません。希望はあなたと一緒にあり続けます。

あなたに寄り添う、この本たちと同じように。

※池田大作創価学会名誉会長は、1983年以来、毎年、創価学会インターナショナルの日1月25日に世界へ向けて記念提言を発表しています。



V・E・フランクル(F・クロイツァー編、山田邦男、松田美佳訳)『宿命を超えて、自己を超えて』春秋社、1997年)
本書は、アウシュヴィッツの生き証人である著者の講演や対談をまとめた一冊で、さながらフランクル自身によるフランクル入門となっている。人間は「意味」を見いだせないとき、絶望の淵に立たされる。苦悩に打ちひしがれることなく、人生を切り開くにはどのようにすればよいのか。言葉による「精神の抵抗力」を鍛え直すほかない。「人間は自分を変えうる存在である 精神の抵抗力は病気にも無効ではない 状況を超えて」。

<提言からの抜粋>
フランクル博士は、苦難に直面した時の人間精神による応戦劇の真骨頂を、次のように記しています。
 「重要なのは、避けることのできない人生の運命的な打撃をどのような態度で、どのような姿勢で受け止めるかである。したがって人間は、最後のいきを引き取るそのときまで、生きる意味をかちとってわがものとすることができる」(フランクル『宿命を超えて、自己を超えて』)
 博士はこの人間精神による応戦を「態度価値」と名付けました。それは、「どのような条件、どのような状況のもとでも人生には意味がある」との思いを奮い起こし、苦難と向き合う中で、その声明の輝きが苦しみを抱える他の人々を勇気づける巧妙となり、「自分個人の悲劇を人類の勝利に変える」道をも開く価値創造に他なりません。

39回「SGIの日」記念提言 地球革命へ価値創造の万波を 2014年1月26日

創立者は、提言の冒頭でレジリエンスの概念を取り上げ、人間の内発性による人間のエンパワーメントを説いている。その筋道において、フランクルの人間精神の応答劇は、人格の価値を重視し、軍部権力と対峙したために投獄された牧口常三郎の軌跡と交叉するのではあるまいか。私自身が私の生きる意味を大切にする人間であってこそはじめて他者によりそうことも可能になると思う。【吉川大河】

ネルソン・マンデラ(東江一紀訳)『自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝 上・下』(日本放送出版協会、1996年)
人権闘争の仰ぎ見るべき先達の一人が南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領だ。本書は誕生から大統領就任へのその「長い道」をあますところなく語り継ぐ大著の自伝だが、一気に読んでしまうことができる。状況分析と人物判断のシビアさでマンデラを超える人間は他に見いだせない。しかし、マンデラは差別をする人間の中にも善性を見出そうと試みる。その姿は、不軽菩薩を彷彿とさせる。獄中27年間。節を曲げない人間こそ人間である。
<提言からの抜粋>
 翻って現代においても、核兵器の境位や環境破壊のように問題が深刻であればあるほど、できるだけ考えないでおきたい課題として遠ざけようとする風潮が強く、たとえ危機意識を持った人でも、自分一人が行動したところで何も変わらないとあきらめてしまう場合が少なくありません。
 その無意識や無気力の壁を破るには、マンデラ氏が「人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、不可能(『自由への長い道(下)』)と叫んだような“使命感”や、環境活動家のワンガリ・マータイ博士が「私たちは、傷ついた地球が回復するのを助けるためにこの世に生を受けた」(アンゲリーカ・U・ロイッター/アンネ・リュッファー『ピース・ウーマン』)と述べたような“誓い”に貫かれた行動が、何よりも必要となってくると私は考えます。

39回「SGIの日」記念提言 地球革命へ価値創造の万波を 2014年1月26日

筆者は、1990年、創立者池田先生がマンデラ氏と初の会見の折、その歓迎の席に臨んだ人間である。誰かがやるから、私は立ち上がらなくてもいい、という他者依存を拒否することをその時に学んだ。諦めることこそが「人間」を無効化してしまう暴力に連動してしまう。だからこそ人間を尊重しようと「誓願」して立ち上がるしかない。そのことを今あらためてかみしめている。【三谷良典】

アマルティア・セン(大門毅監訳、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
センの関心は一人ひとりの個人にある。それが氏の人間の「生存」と「生活」を重視する「人間の安全保障論」の根柢にある。故郷で経験した飢餓の経験や、ムスリムだというだけで目の前で殺されたカデル・ミアとの出会いがその出発点なのだろう。多発する紛争の多くや残虐行為は、選択の余地のない唯一のアイデンティティという「幻想」を通じて発動・拡散・継続させられている。本書は憎悪をかきたてる「アイデンティティ」をキーワードに、テロと暴力の連鎖にどう向き合ったらいいのか、ひとつの処方箋を示した渾身の一冊だ。

<提言からの抜粋> 
 一人の人間には民族や宗教だけでなく、さまざまに自己を規定する要素が複層的に折り重なっています。この「アイデンティティの複数性」が、現代において人々が集団心理や暴力的な扇動に押し流されないためのカギになると訴えたのは、経済学者のアマルティア・セン博士でした。
 幼い頃、紛争で多くの人が“宗教の違い”だけを理由に命を奪われる姿を目にして、深く胸を痛め、その悲劇を防ぐための研究と思索を続けてきたセン博士は、「たとえ暗黙のうちにあっても、人間のアイデンティティは選択の余地のない単一基準のものだと主張すること、人間を矮小化するだけでなく、世界を一発即発の状態にしやすくなる」と警告した上で、こう述べています。
 「問題の多い世界で調和を望めるとすれば、それは人間のアイデンティティの複数性によるものだろう。多様なアイデンティティはお互いを縦横に結び、硬直した線で分断された逆らえないとされる鋭い対立にも抵抗する」(『アイデンティティと暴力』)と。
 同じ民族に属していようと、同じ宗教を信じていようと、育った環境も違えば、職業や趣味も違い、信条や生き方も異なる。人それぞれ千差万別なのが、世界の実相です。民族や宗教の違いとは位相を異にしつつ、人間と人間の一対一の関係において、さまざまなアイデンティティが時に交錯し、共鳴し合う可能性が常に開かれている。

第38回「SGIの日」記念提言「2030年へ 平和と共生の大潮流」 2013年1月26日

世界を真に人間的なものにするには、様々なラベルを取り払い対話を通して語り合うほかない。創立者の対話の軌跡はその美しき見本である。そして徹底的な対話と当時に必要なことは、人間を無効化してしまう暴力とそれを容認してしまう反知性主義と生-権力には徹底的に抗わなければならない。対話と対峙の両輪こそ人間を人間らしくする。本書『アイデンティティと暴力』の副題は「運命は幻想である」。運命を柔軟に退けたい。【窟】

中村元『ゴータマ・ブッダI』、『決定版 中村元選集』第11巻(春秋社、1992年)
釈尊は信仰対象として礼拝され人々の祈願の対象となっている。それは超人的な神通力をもつ「仏」との受容だが、釈尊は人間ではなかったのか?本書は、東西の叡智に遍く通じた稀代の碩学が、その足跡をたどり、実像を明らかにする名著である。ゴータマ・ブッダとは、釈尊の人間としての姓である「ゴータマ」と、修行の完成者「ブッダ」を表し、即ち「人間ブッダ」をそれは意味する。秘伝を排し、人間としての完成の道を不断に歩み続けること仏教の真髄--釈尊の生涯はそのことを語り継いでいる。

<提言からの抜粋> 
 その上で、この逸話を、他の経典における伝承と照らし合わせると、もうひとつの釈尊の思いが浮かび上がってきます。
 −−釈尊は、修行僧の介護をした後、弟子たちを集めて、次々と尋ね聞いた。その結果、修行僧が重病に苦しんできたことも、どんな病気を患っていたかも、弟子たちが以前から承知していたことを知った。
 にもかかわらず、誰一人として手を差し伸べようとしなかったのはなぜか。
 弟子たちから帰ってきた答えは、修行僧が病床で語っていた言葉の鏡写しともいうべき、「彼が他の修行僧のために何もしてこなかったので、自分たちも看護しなかった」との言葉だった(「律蔵大品」から趣意)。
 この答えは、現代的に表現すれば「日頃の行いが悪いから」「本人の努力が足りないから」といった自己責任論に通じる論理といえましょう。それが、修行僧にとっては運命論を甘受する“あきらめ”となって心を萎えさせ、他の弟子たちにとっては傍観視を正当化する“驕り”となって心を曇らせていた。
 そこで釈尊が、弟子たちの心の曇りを晴らすべく、気づきを促すように説いたのが、「われに仕えようと思う者は、病者を看護せよ」(『ゴータマ・ブッダI』との言葉でした。
 つまり、仏道を行事るとはほかでもない。目の前で苦しんでいる人、困っている人たちに寄り添い、わが事のように心を震わせ、苦楽を共にしようとする生き方にこそある、と。

38回「SGIの日」記念提言「2030年へ 平和と共生の大潮流」 2013年1月26日

提言では「ここで留意すべきは、そうした過程で尊厳の輝きを取り戻すのは、苦しみに直面してきた人だけでなく、その苦しみを共にしようとする人も同時に含まれているという点」ですと創立者は指摘しています。弱者に対するバッシングをはじめとする自己責任論こそ人間を人間として取り扱わない魔性の論理。驕りに丸め込まれてはいけません。

池田大作、M.ゴルバチョフ『二十世紀の精神の教訓 上・下』(潮出版社 1996年)
現代が直面する最大の課題は、「人間の危機」であり、「人間の尊厳の危機」である。二人の対談者は、戦争の20世紀の経験を冷静に見据え、「新たなヒューマニズム」を論じ合う。キー概念は「多様性そのものを価値として提示する」こと。日常性から出発し、その日常性そのものを再活性させる以外、多様性と相互尊敬は生まれ得ない。

新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書 2016年)
沖縄辺野古の基地をめぐっていま起きていることを認識するには、日本が沖縄をどのように扱ってきたかという歴史的認識だけではなく、日本政府がどのような「差別」を行い、それに対してなぜ皆が黙っているかという現状を踏まえる必要がある。この沖縄問題の最新刊は、それに大きな示唆を与えるものだ。

ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』(ゆみる出版 1987年)
希望は身近な誰かとの関わり(ケア)を通して生まれてくることを示している。そこには、一方的な関わりとしての指導ではなく、自他の差別を超越するところから始める対話への道筋が示されている。「私のケアをとおして相手が成長していくという希望(Hope)がある」とは、そのような文脈でこそ活きてくる。

光本滋『危機に立つ国立大学』(クロスカルチャー出版 2016年)
功利主義を優先させ、批判的に考えることを許さない勢力が、社会を方向づけようとしている。それが端的に現れているのが、批判的に物事を考える訓練をする場である大学への統制だ。本書は大学が国家戦略に利用される危機を可視化することで、国家の思想統制がどのように行われていくかを明らかにする。

高橋俊介 『スローキャリア』(PHP研究所 2004年)
仕事に対する強迫観念。これこそが現代の職業人が罹患しがちな病だろう。それは社会への参画自体を不可能にし、たんなる社会の歯車のひとつとして、代替可能な軽微な存在へと自分を貶める。こんな人権侵害を「働き方」と矮小化する社会こそ、犯罪的だ。本書はそこからの訣別を促す

平川克美 『俺に似た人』(朝日文庫 2015年)

父親の介護を通して見えてくる社会のありかた。日本は幸福な国などではなく、一人の努力にすべてを押し付ける無責任な国なのだと思えてくる。あらゆる矛盾と重圧のなかでも、介護の当事者である著者の筆は明るい。それに救われる思いがする。