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選書プロジェクト 第10号

ネットプリント番号:24196177(3月30日)



国境を越える結びつき

 中国への留学が、共産圏への敵視から白い目で見られていた頃、ある学生が留学から一時帰国し、語った。
「どんどん中国へ留学生を送ってください。日本が二度と戦争しないためには、友達をつくる。それしかないんです」
留学生が人材として期待され、留学先に関係する国際的な仕事に就くことが当たり前のように思われていた時代、留学から帰ったあと、地元の家業を手伝うことを選んだ学生が言った。
「私は語学を使う機会のない地元に戻ります。私がこれからするのは、国際的な仕事ではありません。でも、私の故郷の人たちに、私が友情を結んできた遠い土地の友達のことを語り続けます。それが私の世界平和への道です」
 ひとりひとり、国境を越える取り組みは違う。ひとりひとり、自分が出来ることをしようとしている。
「国境を越える」。実は簡単なことだ。なにが起きているのかを知る。そして、共感する。時には涙を流す。そのひとたちの心中を思って憤るときもある。知り合いでもなく、身近でもなく、でも、同じ地球の上で呼吸をしている「人間」として。
 そうした共感は、小さなことかもしれない。でも、ひとり一人が小さな共感の蕾を、淡く儚い友情の花へと開かせていくなかで、世界のあちこちで、万朶の平和の桜が咲き薫る、そんな春が来ることを夢見ている。
 春4月。

創価大学では、周恩来を偲んで植えられた周櫻が開花し、満開の花のもと、周櫻観桜会が開かれる。かつて創立者が周恩来と会見し、日中友好の未来を託された、その深い思いを、年々歳々、たくさんの人が周桜の前に集い、祝い、歌う。
 「時は去り 時は巡り
  現(うつ)し世に 移ろいあれど

  縁(えにし)の桜は 輝き増して

  友好の 万代なるを 語り継げり

  我も称えん
心の庭に 
  友誼(ゆうぎ)の桜は 永遠なりと」
  (「桜花の縁(えにし)」)
 これを読むあなたは、いまどんな縁の桜を咲かせようとしているだろうか。さあ、始めよう。冬を終わらせよう。 


伊藤和子『人権は国境を越えて』(岩波ジュニア新書、2013年)
本書は「ヒューマンライツ=ナウ」を立ち上げ人権問題に関わり続けた著者がその活動の履歴を綴った一冊。「ニュースを注意して読むこととか,自分で調べてみるとか」小さな一歩が大きなちからになる。人権と聞けばどこか遠くの問題と意識しがちな日本社会。著者の活動の記録は、人権とは全ての人に関わることを気がつかせてくれる。また、「なんとかしたい」と思いを抱く人は多い。その心をどのように形に変え行くのか。本書のその一つの参考になろう。

原田敬一『兵士はどこへ行った 軍用墓地と国民国家』(有志舎、2013年)
国民を創造する国家は死を記念・管理せざるを得ない。本書は緻密な実証と丹念なフィールドワークから戦死者の追悼・慰霊・顕彰・記念を検証、著者の広範な取材はその成立と構造を的確に論証する。軍用墓地とは、軍が設置し、維持・管理した軍人の墓地のことで、時に感情の摩擦の導火線となる。軍用墓地と国民国家の共犯関係を学べば学ぶほど、人為的につくられた「違い」の無意味さが理解できる。

川島緑『マイノリティと国民国家 フィリピンのムスリム』(山川出版社、2012年)

イスラーム・マイノリティは、従来は国民国家の側から記述されるばかりであったが、イスラーム運動の側から国民国家をみるという視点からフィリピン現代史を描き出す挑発的な一冊。フィリピンのムスリムと一口に言っても実態は多様で、政治的傾向のみならず、地域、社会、家族、個人などによって様々である。そして筆者の報告からは、紛争はもうたくさんだという人々の声が伝わってくる。筆者は女性の教育に期待をかけて本書を結ぶ。地域社会における「公正」観念を考える上でも必読である。

司馬遼太郎『菜の花の沖』(文春文庫 2000年)
「江戸時代で誰が一番偉いかといえば、 私は高田屋嘉兵衛だろうと思う。 それも二番目がいないほど偉い」と司馬遼太郎に言わしめた嘉兵衛は、日露の外交の犠牲になりつつも運命に甘んじず、積極的に友好の架け橋となろうとした信義の人として描かれている。幕府には彼を受け入れる度量が無かったが。

ミシェル・ワルシャウスキー(脇浜義明訳)『境にて イスラエル/パレスチナの共生を求めて』(柘植書房新社、2014年)
 「越えてはならない国境もあれば、むしろ破るべき国境もある」。本書はマツペンを経てAICで反シオニズム闘争を続ける「国境をアイデンティティとする革命家」の半生記だ。シオニズムを知らずアラブを脅威としか感じないナイーヴかつ敬虔なユダヤ教青年が、イスラエルに渡り、同地の最左翼ともいうべき反シオニズム闘争を続ける原点は、故郷ストラスブールのユダヤ人コミュニティでの体験に由来する。
 ホロコーストの追悼行事の折り、ニガーという差別用語を何気なく使って大人から強打された。そこから「貧しい人々、弱い人々、身分の低い人々に自分を一体化させるのは、私のユダヤ人アイデンティティの一部となっていた」という。著者はイスラエル本国のホロコースト・アイデンティティの限界をユダヤ人中心主義に見て取る。人道に対する罪の認識がないから、ナチと同じような残虐行為をパレスチナ人には平然と行い、批判者を「ナチ」と罵倒するのがイスラエル・アイデンティティである。
 「他者である非ユダヤ人も被害者になり得ることを認めることが、シオニズム言説と袂を分かつ重要な一歩である」。
 アンチ・テーゼ関係にある価値観の間には通行不可能な国境があるが、人や文化の交流や共存を禁じる国境は否定すべきである。
 著者の常人ならざる歩みは、まさに「過激」といってよい。しかし「過激」にならなければ、“常識のドクサ”が秘めるより重大な暴力性を暴くことは不可能である。柔軟かつしなやかに現世の重力を撃つ、今読むべき1冊。

野村真理『隣人が敵国人になる日: 第一次世界大戦と東中欧の諸民族』(人文書院、2013年)
帰属意識も疎らな多民族混淆地域の東部戦線は「隣人が敵国人になる」日であった。言語や宗教の異なる諸民族が複雑に入り組む東中欧。ゆるやかな連合としての帝国の崩壊は、民族自決と国家形成の理念を掲げつつも、多様な人々を置き去りにすることになった。国民国家の意義を逓減しつつある現在、国家=民族である必要はないが、民族であることと、国民であることから置き去りにされる歴史を振り返る本書は、近代とは何かを教えてくれる。

雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』(光文社新書、2008年)
個人の自立と共同体の紐帯が声高に叫ばれる時にこそ私たちは時代精神に警戒しなければならないのではあるまいか。個と全体におけるモラルの強調は現実をごまかすだけだ。必要なことはストロングタイではなくしてウィークタイ。人間が弱い生き物である事実から出発し、どのような創造的共同が可能なのか智恵を絞るしかあるまい。ストロングタイは一瞬のカンフル剤にはなり得るが、99%の人間は生きづらさを感じざるを得なくなる訳だから、麻薬だ。差異の自覚と相互尊重と共同は、何も国家間・民族間の問題に限られない。

岩下明裕『領土という病』(北海道大学出版会、2014年)

領土問題は全て政治的に構築された産物であり、ひとは常に「領土の罠」に穽っている。領土ほど自明のように映りながらその実空虚なものは他にはないからだ。本書はボーダースタディーズの立場から「領土という病」の治療を目的に編まれた挑戦的な試みだ。著者は沖縄こそ「日本最大の領土問題」とは何か。著者は主権が分断された沖縄だと指摘する。深く頷くほかない。


テッサモーリス=スズキ(伊藤茂訳)『日本を再発明する: 時間、空間、ネーション』(以文社、2014年)
私たちが自明と考える日本についてのほとんどのことは、明治(国家)に一度「発見」されているから「再発見する」必要があるのではないか。本書は自明視された均質な日本なるものを覆し、複数の伝統が時間と空間の中で織り直され境界線を越えていく姿を展望する。グローバル時代の日本研究の基本書は、近代という「設定」の限界を示している。



ベネディクト・アンダーソン(加藤剛訳)『ヤシガラ椀の外へ』(NTT出版、2009年)
 本書はナショナリズム研究の第一人者が、その軌跡を振り返りながら、学問とは何か縦横に論じた一冊だが、抜群に面白い。学問で重要なのは、大学の制度や母国といった「ヤシガラ椀」の外に出ることだ。中国昆明市で生まれアイルランドを経て米国へ。常にマジョリティの中でマイノリティとして“揉まれる”生涯であったと言って良い。「根っこの欠如、強固なアイデンティティの不在」だが、同時にそれは「愛情の対象が多数存在していた」ことを意味し、そのことがマルティプルなナショナリズムを育んだ。「ナショナリズムやグローバル化は私たちの視野を狭め、問題を単純化させる傾向を持つ。こうした傾向に抗う一方で、両者が持つ解放の可能性を洗練された形で融合させること」がこれまで以上に必要となる。
 インドネシアやシャムには「ヤシガラ椀の下のカエル」という諺がある。半分に割ったヤシガラをお椀として使うが、不安定な椀に間違って飛び込んだカエルは中に閉じこめられ、抜け出すことが出来ず、カエルの知る世界は狭い椀の中だけになってしまう。「カエルは、解放のための闘いにおいてヤシガラ椀のほか失うべき何ものも持たない。萬国のカエル團結せよ!」。

モラエス『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』(講談社、1998年)
異文化の中に美点を見出す。簡単なようで極めて難しい仕事を、徳島を終のすみかとして選んだポルトガル人モラエスは成し遂げた。ポルトガルへの郷愁(サウダーデ)を含んだ優しい視線を、目前の徳島の文化に向けたモラエスだから成し得たことだろう。異文化への敬意と愛情がいかに人を美しく生かすか。

鎌田遵『ネイティブ・アメリカン-先住民社会の現在』(岩波新書、2009年)
先住民族は、三度にわたって追いたてられてきた。軍事によって、同化政策によって、そしてグローバル経済によって。アメリカ・インディアンと呼ばれてきたアメリカ先住民の歴史は、まさにその典型である。追い出され、収奪され、ついには囲いこまれる。しかし、今や世界の先住民主たちは声をあげはじめた。彼らの歴史は、近代と強者の傲慢に対する反省を我々に突きつけている。

浪川健治『アイヌ民族の軌跡』(山川出版社2013年)
近代初期までのアイヌ民族の歴史を通観し、アイヌ民族のアイデンティティを確認しようとしている。本書は、最新の研究を踏まえて、少なくとも地方において、アイヌの人々が古来から主体的で統合された活動をしてきたことを明らかににしている。幕府などの支配者側が設定した「日本」という観念枠を越えて、東アジア地域に位置付ける試みもされている。1997年に「アイヌ文化振興法」が成立して以来、アイヌ民族をめぐる研究と言説が激増してきた。詳細が明らかになった反面、マイヌ民族に対する否定的な意見も目立つようになった。鍵は、「民族」という言葉にあるのではないだろうか。異質を忌避する傾向の否定派にとって、「民族」は癇にさわるのだろう。しかし、アイヌのうち少なくない人々は、民族の語に主体性とアイデンティティの意味を込めて使用してきた。否定派の狭隘なヘイト感情を越えて、アイヌ民族の存在は日本の社会と文化を豊かにしてくれるだろう。

宮島喬・鈴木江理子『外国人労働者受け入れを問う』(岩波ブックレット、2014年)
少子高齢化のゆえに労働力人口の減少が予測され、外国人労働者の受け入れが政策として提起されている。しかし、その裏で、外国人労働者は来てほしいが「移民」は避けたいという意識がうかがわれるのはいかがなものか。本書の問題意識をー言で言えば、こうなるだろう。「期限つき」を前提した入管や一部外国籍の人々をターゲットにしたヘイトスピーチなど、「多様さ」を忌避する現状に挑む著作たちの強い意識が伝わってくる。介護労働が「単純労働」扱いされているにも現状、「研修」や「実習」や「国際貢献」の名の下に、劣悪な環境に置かれがちな若年外国人の問題、実態としては「移民国」になりつつあることなど、短いながらも多くの重要な課題を要領よくまとめてくれている。お勧めする所以である。