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選書プロジェクト 第11号

ネットプリント番号:42021276(4/14まで)

働くということ
働くこととは、はたを楽にすることです。
新卒入社した会社でそう言われました。
2008年、飲食店に新卒入社した方が3ヶ月で過労自殺に追い込まれました。そのニュースを見た時衝撃を覚えました。しかし、通勤時間帯の人身事故を思い出せば、彼女は何も特別な人ではありません。ニュースにならない、何万人もの自殺の上に成り立つ社会。次があなたの大事な人でない保証はどこにもありません。
上司は「徹夜仕事が当たり前で、仕事は空き缶と山盛の灰皿の片付けから始まったし、月に3日しか家に帰れなかった、だから貴方達はましだ」と、入社したばかりの私に語りました。
そうかもしれません。
けれどもそうして、苦労を語り、押し付けて、同じ苦労をさせ、誰かを苦しめる、そんな社会は幸せなんでしょうか?
子育てに関わろうと思っても寝顔しか見れないお父さん。
働きに出たいけれど、保育園に入れられない、その状況を変えてほしいと願って声を上げたお母さんたちは、子どもを守るための抱っこ紐にお金をかけたことを非難されました。
そんな足の引っ張りはやめて、はたも自分も楽にできる働き方を私は模索していきたいです。
今回の選書が、働くことについてあなたが考えるきっかけになれば嬉しいです。
「ことに昔から ′′労働′′とか ′′勤勉′′は日本民族の一つのよき特性としてあげられているわけですが、 近代産業の巨大なメカニズムのなかにとりこまれ、非人間的なかたちで推し進められてきたところに、 いわゆる′′エコノミック・アニマル′′と、呼ばれなければならないような状態を生みだし、公害などの社会矛盾を噴出させたことも否定できません。 要は、国家的な規模であれ、 一個の人間次元であれ、全体的な調和と統一を目指す潤いある人間性に生きることが、正しいのではないかと思っております。」
(池田大作・松下幸之助対談『人生問答』より) 

小林美希『ルポ 保育崩壊』(岩波新書 2015年)
子どもにとって保育士は、時にはヒーローであり、時には甘えさせてくれる家族であり、時には無条件に泣かせてくれる最大の理解者だ。そんな保育士が誇りを持って働けない環境だとしたら、子どもはどうなってしまうのだろう。美しい国、などと年寄りが虚勢をはったところで、子どもが見るのは地獄だ。

高橋しん『いいひと。』 (小学館 2004年)
ひとは何のためにはたらくのだろう。ひとを傷つけても働くことに意味があるのだろうか。家族を護るために働く、その言い方は国を守るために働く、というのと同じくらいウソで塗り固められているように思う。ちがう。私は私がしあわせになりたいからはたらく。私の大切な人の笑顔がみたいからはたらく。

飯島裕子・ビッグイシュー基金『ルポ 若者ホームレス』(ちくま新書 2011年)
働くことを希望してもブラックな職しか得られない社会。そのなかで暴力的な労働社会の犠牲になっても、それでも自らは暴力を振るう側にまわることを拒否する。そんな、まっとうな感覚をもっている人がホームレスにならざるを得ないのが問題だということに気付かない。それこそが暴力じゃないか。

森岡孝二『雇用身分社会』(岩波新書 2015年)
安倍首相の目指すものは「世界で一番企業が活躍しやすい国」であると筆者は指摘。その文脈で語られる「女性活躍」や「一億総活躍」など首相のスローガンには個の幸福や多様な価値観は含まれていないかのようだ。企業が儲かれば構成員は幸せだという傲慢な全体主義・組織主義が、そこには見え隠れする。

村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社 2002年)
ユダヤ人大量虐殺を、いかに短期間にローコストで行うか。与えられた課題をせっせと計算し、こなしていったナチスのアイヒマン。彼は自らの美しい計算値を乱す不確定要素を憎む。大雪、停電、ガス不足、ときに戦争をも。物語中のちょっとした挿話のなかに、人間の想像力をショートさせてしまう、「仕事だから」という言葉の怖さを見た。

P.F.ドラッカー『マネジメント【エッセンシャル版】--基本と原則』(ダイヤモンド社 2001年)
企業の目的は企業の外(社会)にある――すなわち、顧客を創造することだという。誰が何を望み、自分たちは何を提供できるのか。他者との関係性において価値を捉える牧口価値論にも通じる企業論といえないだろうか。

カミュ『シーシュポスの神話』(新潮文庫 1969年)
 地上の生への強固な情熱をもち、神をも恐れなかったシーシュポスは、神々の怒りによって、巨岩を山の頂まで押し上げる刑罰を受ける。しかも、その岩は山頂にとどくなり、転がり落ちて麓に戻ってしまう。今日も、明日も、明後日も・・・・・・果てしなく巨岩を押し上げ続けなければならない。無益で希望のない労働を、それでもなお「すべてよし」とする、生命の輝きと勝利を謳う。

松本零士『銀河鉄道999「ウラトレスのネジの山」』
 少年画報社文庫 1994 宇宙中で使うためのネジをつくり出している惑星ウラトレス。ネジの大地に、ネジの山に、ネジ混じりの雨が降る。そこで出会ったラセンという女性は、機械の体をもって、明けても暮れてもネジをつくり続けている。ネジをつくることが宇宙のどこかで役に立っていると信じ、自分も文明を支える一本のネジであると自負し、「決心して自分でネジになったら、けっして泣き事をいわないのが、本物のネジだ」と語る彼女は清々しい。

山田玲司『資本主義卒業試験』(星海社 2011年)
 コマ割り漫画風イラストのついた小説。成功したけれど心虚しい漫画家(主人公)、卒業が危うい女子大生、エコ生活が耐えられないで逃げてきた若い男、そして悪どく稼いできたことに嫌気がさした中年の元商社マンの4人が教授の出した試験問題「資本主義を卒業するにはどうすればよいか」という言葉をめぐって出会い、ファンタスティックな旅に出る。「無限の成功」という思想に洗脳しようとする「資本主義ランド」の老マスターにあらがって主人公が得た教訓は3つ。「からだ」(いのち、環境、など)、「師」(実用よりはむしろ人の道を教えてくれる存在)、そして「じぶん」(もちろん、私のこと)。これは、我々の、そして世界の卒業試験でもある。

橋本健二『新しい階級社会 新しい階級闘争』(光文社 2007年)
日本は、今や階級社会である。総中流という社会像はかつても幻想だったが、今や完全に崩れた。格差は世代をまたいで継承されている。日本の現状の「新しさ」は、正規雇用と非正規雇用との間にある。それは、正規雇用という「資産」または「権力」をめぐって下層の人々の間で闘争と搾取が起こっていることである。上層は安定している一方で、下層はさらに下層へと移動するリスクにさらされている。筆者は、階級ごとに人格的な特徴があることも指摘する。階級分析に一石を投じた好著。

本田由紀『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ』(岩波ブックレット)
経済成長で再配分が不可能な現在、成長神話を精査しリセットする必要があるのではないか。本書は、日本を呪縛する「戦後日本型循環モデル」の誕生と普及を概観し、組織の凝縮性と同調動圧という一方通行というその特異な限界を示す。高度経済成長とは条件が偶然に交差した再現不可能な神話にほかならない。著者は「戦後日本型循環モデル」を、教育・仕事・家族が一方向にリンクする特異な構造と素描する。「仕事・家族・教育という三つの異なる社会領域の間が、㈰きわめて太く堅牢で、㈪一方向的な矢印によって結合されていた」戦後日本型循環モデルは、低成長の縮小・成熟社会の現在、再現不可能な拡大再生産システムといってよい。いい学校に入り、いい企業に入り、お金を稼いで家庭をもつことが悪い訳ではない。しかしその一歩通行のシステムは現在において維持することはもはや不可能だ。個人の行動や責任ではどうにもならない構造的破綻を前に「働かざるもの食うべからず」とか「苦しいのは自業自得」といってもはじまらない。「このままではだめだ」だが、循環モデルの呪縛に囚われず脱却や変革を創造するほかない。