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選書プロジェクト 第5号


ネットプリント番号:87679099(1/21まで)


宗教と暴力
  暴力の肯定は宗教の自殺行為

 「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(「マタイによる福音書」2652節)
 
 太古の昔、人間は他の動物とは違うという強烈な「自覚」を持つことではじめて人間となりました。そして人間となることで人間は宗教と向き合うことになりました。宗教とは、人間の歴史そのものといっても過言ではありません。では、人間の歴史とは何でしょうか。それは異なるものを排除しようとする暴力の歴史そのものであります。
 
 宗教は常に人間解放の源泉であり続けてきましたが、同時に暴力の源泉でもあり続けてきました。しかし、およそ世界宗教であるならば、いかなる理由があろうとも暴力は肯定され得ません。では誰が宗教の名のもとに暴力を肯定するのでしょうか。それは人間です。宗教自体が暴力を肯定するのであれば、それは宗教の自殺行為といってもよいでしょう。
 
 私たちは、今回、宗教の負の側面に関する叡智を選書してみました。諸宗教の信仰者として、宗教が人間破壊に傾かないように、その負荷を学び、引き受け、「剣を取る」ことに常に警戒することが大切だと考えるからです。宗教と暴力の歴史を学び、諸宗教に対する正確な情報を知ること。そのことによって現代世界最大の課題である暴力の克服に、諸宗教の一人ひとりの信仰者として関わっていくことが可能になるのではないでしょうか。
 
 見たくないものを正確に見据え、自身の来し方を振り返ること、そして同時に、異なる他者の歩みに学ぶこと――。信仰の深みもそこにはじまるのではないでしょうか。
 「私は、宗教を弘め、また自ら実践する人が常に心しなければならないことは、その最も根本的な精神を自らが正しく実践していくことだと考えます。他の人々に対して宗教の教義を押し付けようとし、いわんやそれに反しているからといって、社会的制裁を加えたり抑圧したりすることは、自ら宗教の精神に背いた行動になってしまっていることに気付くべきです。」(池田大作、B・ウィルソン『社会と宗教』講談社、1985年)

池田大作、アブドゥルラフマン・ワヒド『平和の哲学 寛容の智慧―イスラムと仏教の語らい』(潮出版社、2010年)
イスラムには常に砂漠の宗教とのイメージがつきまとうが、ムスリムを擁する最大の国民国家は、インドネシアである。この一点の誤解だけでも私たちはイスラムに関して何も知らないことを明らかにしているのではないだろうか。本書は同国第四代大統領との創価大学創立者との宗教間対話だが、イスラムの柔軟さと非暴力と対話の精神を見事に浮かび上がらせる。真の「寛容」とは、生命を守り悪を許さない心にある。そこには宗教の壁は存在しない。

マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(新潮社、2012年)
19世紀末のブラジルにおいて実際に起こった「カヌードス戦争」の史実に基づいた長編小説。神秘的な指導者コンセリェイロを始め個性的な人物たちが、国家とキリスト教の対立を軸に壮大な革命のドラマを描く。聖地において激化する暴力の嵐の中で、登場人物たちに様々な思想的逆転が広がり、「安全」な立ち位置が失われていく。何千もの死という現実を前に、この宗教戦争をどう総括すべきか、我々にも問われている。

田中芳樹『銀河英雄伝説』(創元SF文庫 2007年)
劣化した民主国家の軍事指導者にして民主主義の可能性を信じ続けたヤン・ウェンリーを斃したのは、独裁国家の砲弾ではなく、狂信的な地球教徒の凶弾であった。SFに仮託し、民主主義に必要な市民の資質を問うたこの作品は、同時に、宗教があらゆる前提を乗り越えて暴力的に働く可能性をも示唆している。

司馬遼太郎『街道をゆく 21 神戸横浜散歩・芸備の道』(朝日文庫、2009年)
宗論が政治権力の介入によって解決された「三業惑乱」。宗論が社会問題化するほど優勢だった門徒が、本山に対して起こした宗学の純化運動により、本山の教義解釈曲解の非は公場で幕府に否定され、本山は処罰まで与えられた。民衆運動は評価できるが、政治権力が宗教に関わることはあってはならない。

岡野八代『戦争に抗する――ケアの倫理と平和の構想』(岩波書店、2015年)
暴力に巻き込まれた身体の悲鳴に耳をふさがず、喪われるものを想像して怒りを持ちながらも、報復的暴力を用いる誘惑と闘い、「葛藤しながら」行動するところに、暴力に抗する市民が生まれることを示唆している。「葛藤」という言葉こそ、ケアという関わりがいかに倫理的視点をもたらすかを示している。

ブライアン・A・ヴィクトリア 『禅と戦争: 禅仏教の戦争協力』(えにし書房、2015年)
著者は皇道仏教の流れに、皇道禅、軍人禅、そして企業禅を位置づけている。服従を教えるプログラムとしての禅の在り方に疑問を持ち、戦争加担の思想としての禅を捉え直そうとしているのである。エピローグに書かれた著者の逡巡と宗内からの非難の言葉は、宗派内から声を上げる難しさをうかがわせる。

池田大作、マジッド・テヘラニアン『二十一世紀への選択』(潮出版社、2000年)
好戦的イメージほどイスラムの実像とかけ離れたものはない。イメージを作り上げるのは宗教ではなく人間である。本書はスーフィズムに造形の深いムスリムの平和学者と創価大学創立者によるイスラムと仏教の初めての対話である。イメージを超えてお互いを深く理解することから一切が始まる。「『文明間の対話』といっても、あくまでその基本となるのは『人間と人間の対話』なのです」。

南原繁『国家と宗教 ヨーロッパ精神史の研究』(岩波文庫 2014年)
戦前日本の抑圧構造においては、その精神的支柱である擬似宗教の「国体」との対決なくして、学問は成立しない。天皇制ファシズムの下、次々と批判的知性は妥協を強いられたが、その橋頭堡を守ったのが無教会主義キリスト者であった。権力との緊張関係の中で命がけで編み出された本書は、永遠の相の下に現象を理解することの大切さを痛切に教えてくれる。現実的理想主義、今こそ。
河島幸夫『戦争と教会 ナチズムとキリスト教』(新教出版社 2015年)
ナチス台頭期からその独裁へと至る過程で、戦争と平和の問題にプロテスタント教会はどのように対応したのか。告白教会の闘争は存在したが、兵役を「積極的なキリスト教の道」と説いたのが大勢の対応である。戦争前夜のごとき現代日本において、擬似宗教への真理の収斂の経緯を学ぶ必要性は高い。この世のものを絶えず相対化できる力をもつことができるかどうか信仰者は試されている。

W・フーバー、H・E・テート(河島幸夫訳)『人権の思想 法学的・哲学的・神学的考察』(新教出版社 1980年)
人権を尊重しようという考え方は、人類が長い年月をかけて獲得してきた概念であるが、擁護義務を背負う為政者や連動知識人は、先験的ではないとの理由でしばしばあざ笑う。世俗的人権論には宗教も一貫して批判的な態度を取り続けてきたが、第二次大戦以降、百八十度転換する。人権思想を神学的に基礎づけることは果たして可能か、本書はその筋道をあきらかにする。戦争が教会を動かしたことに注視したい。

市川白弦『仏教者の戦争責任』(春秋社 1970年)
宗教の関する理解の疎いフツーの日本人は「一神教は暴力的、多神教は寛容」と言い、神儒仏の日本的宗教を平和の宗教とうそぶく。しかし、戦時下日本において、真っ先に戦争を礼賛し、「皇道宣布のための滅私奉公の十字軍」として働いたのは、ほかならぬ仏教である。仏教の差別即平等の論理は、戦後日本んの在日朝鮮人への同化政策への仏教徒の支持のなかにも影響を与えている。平和の宗教なにそれ美味しいの?安心立命とは心だけの問題ではない。

友岡雅弥『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』(第三文明社、2000年)
本書は、「仏教」のあり方を「人間ブッダと出会う」かのように現前させようと企てたスリリングな一冊だ。前半では「ブッダと弟子たちの対話」を通して、当時の人に「どのような角度と強度で、衝撃を与えたか」を辿る。後半では、「ゴータマ・ブッダの出現の歴史的、社会的意義」を現在の視点で蘇らせていく。
読者に「眼前のブッダの歩み」を、おいかけ、よりそい、「自ら歩めるよう」に、そして「ブッダの言葉」に、耳をそばだて、受け止め「自ら語るよう」に問いかけてくる。著者の筆使いは、ブッダの言葉をよみがえらせるだけでなく、私たち一人ひとりの思索と行動に火をつける。(改行) ブッダは歩むブッダは語る……。それは私自身が歩み語ることでなくてはならない。

ヤコヴ・M.ラブキン(菅野賢治訳)『トーラーの名において シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』(平凡社、2010年)
現代世界でも1、2を争う人権侵害国家こそイスラエルである。その思想的原理がシオニズムだ。敬虔なユダヤ教徒である歴史学者の著者は、真摯なユダヤ教徒にとって、シオニズムこそ神への裏切りであると手厳しく批判する。国家擁護のためには武力を厭わないことこそ、他者との調和を解くユダヤ教とは根本的に相容れないのだ。

小川原正道『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ 2014年)
本書は戦前日本の宗教政策を踏まえた上で、戦争と宗教の関わりについて俯瞰する一冊。1899年から太平洋戦争の終結まで、宗教横断的にその関わりを明らかにする。警世の反戦論に宗教の例外は殆ど無い。しかしその担い手は全て「個人」であり「団体」はむしろ協力を選択する。暴挙再来の時「宗教者たちは、あるいは我々日本国民は『殉教』の担い手たり得るのか」。その余韻は重苦しく鳴り響き続けている。

パウル・ティリッヒ(ロナルド・ストーン編集、芦名定道訳)『平和の神学 19381965(新教出版社、2003年)
「相関」こそティリッヒ神学の核である。抽象的平和論と平和を放棄する現状容認的な現実主義という不毛な対立を超克するためには、境界に立ち続け、理論と実践の境界で相互に鍛えあげる必要がある。現実の歴史を透徹する眼差しと、平和を展望する信仰者の誠意というティリッヒの両目思考こそ私たちは学ぶ必要がある。

一戸彰晃『曹洞宗は朝鮮で何をしたのか』(皓星社、2012年)
本書では、伊藤博文を暗殺した安重恨の次男が京城にあった博文寺を訪れ、曹洞宗の僧侶から位牌を受けて「報国の誠を誓った」という当時の新聞記事が紹介されている。これを「やらせ芝居」と断ずる著者は、「人権・平和・環境」を掲げる自宗の大戦中の戦争責任に真っ向からむきあおうとしている。

高遠菜穂子『破壊と希望のイラク』(金曜日、2011年)
フセイン圧政で禁じられていた宗派対立は、イラク戦争で解禁された。宗派を問わずイラク人には米国を初めとする「有志連合」への憎悪が残った。各国のテロの原因はイラク戦争にあると著者は言う。2004年、現地武装勢力に拘束され、解放後、日本人からバッシングを受けた。PTSDになっても、現在まで現地支援活動を続けている。人を救うとはどういうことか。イラク人との対話を重ねる姿に考えさせられた。

長崎県南島原市 (監修) 『原城と島原の乱有馬の城・外交・祈り』(新人物往来社、2008年)

この本は、シンポジウムの記録集として出版されました。様々な人が島原の乱の歴史的意義を述べてますが、ヨゼフ・ピタウ司教の「信仰を公にすれば迫害されるというなかで、十字架を作っていた南島原の人たちの信仰は、民主主義のはじまりです」との言葉は、日本思想史において記憶されるべきです。

岡崎匡史『日本占領と宗教改革』(学術出版会、2012年)
神道が敗戦後にGHQによって問題視され政治問題として扱われるに至った経緯を、それに関わった人の思想的背景にまで踏み込んで詳述している。特に政教分離が民間情報教育局バンス課長のバプティスト的理想主義に拠るとの指摘は、非常に興味深い。どんな歴史も、人間の思想の反映であることを忘れまい。

ラス・カサス(染田秀藤訳)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫、1976年)
セプールベダ(染田秀藤訳)『第二のデモクラテス 戦争の正当原因についての対話』(岩波文庫、2015年)
植民地支配の端緒となった大航海時代、インディオに対する征服戦争を告発した司教ラス・カサス。そしてインディオの奴隷利用の正当化を主張したカトリック神学者セプールベタは好対照をなしている。暴力を肯定する原理を、そして暴力を否定する原理を宗教から導き出すのは「人間」である。
 西欧の植民地支配を正当化する原理をキリスト教から、アジアの太平洋支配を正当化する原理を仏教から導き出したのも「人間」である。インディオは人間でないと認定するのは誰か。それは「人間」である。インディオへの暴力に抗うのは誰か。それも「人間」である。「人間」の掲げる「正義」ほど人間を魅惑するものは他にはない。しかし「人間」の掲げる「正義」ほど人間と道理を屠るものは他にはない。
 私たちは、「人間」の掲げる「正義」よりも、永遠普遍の真理に襟をただしながら、相対的歪曲を退けながら、生きていくほかないのではあるまいか。人類は長い年月をかけて「征服戦争は是か非か」をめぐって論争してきた。しかし、あらゆる暴力こそ、人間を破壊し、人間が大切にする理想までも毀損してしまう以上「是か非か」という以前に立ち続けなければならない。いかなる言辞で取り繕うが、「暴力」を「正当化」した時点で、それは宗教の自殺行為である。