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選書プロジェクト 第6号


ネットプリント番号 36705086(2/4まで)

SGI提言に学ぶ

 私たちの社会が急速に交換可能な「取り引き」の世界に変貌しつつあるように感じています。
職場では人が「人材要件」によって取捨選択され、結婚相手からは「物件」と陰で呼ばれ、web上では見えぬ人たちから「監視」されている。都合のわるい人間はもっともらしい理由を付けて別の人間に交換され、その歪みは見えない場所でひっそりと悲劇を生んでいるのかもしれない。
 ”ありのままの人間”を丸ごと受けとめることなく、何かの「材料」や「手段」として見る思考は、いずれ人間にとって悲劇的な形として「戦争」への回路を開いているのではなかろうか。そんな予感ーー人間をモノとして見てしまわざるを得ない現在の社会状況に対するそこはかとない恐怖を私は感じてしまいます。
 現在の言いしれない閉塞感を「時流だから仕方ない」、「現実的に考えれば妥協せざるを得ない」と騙るとき、あたかも現実主義路線という理論思考に見えて、実は人間「不信」から湧き立つ妖の言葉なのではないでしょうか。
言い訳としての「机上の理論武装」に頼る弱さを捨て、人間不信を乗り越える”一歩”を私たちは共に励まし合って踏み出せないでしょうか。
「あなたは、かけがえのない存在なんです」
「私には、あなたが必要なんです」
と、私は出会った人たちに伝え続けていきたいと願うのです。平和を求めて、勇気ある一歩を。

「一部の人々が言うように、国際政治の現実に憲法を合わせるなどという改憲路線より、憲法の理念を現実の国際政治の中で積極的に生かす方途を求めるのが日本の使命でありましょう。なぜなら今日の地球社会の最大の問題の一つは、相互不信にあるからであります。不信感より発する武力による対決を避け、すべての問題を話し合いによる平和的解決に求める流れをグローバルに作り上げることが、何よりも必要かつ重要な時代であります。ここに平和憲法の理念を画期的なものとして世界に訴え続けていかねばならない理由があります。」(池田大作 第11回「SGIの日」記念提言より)

※池田大作創価学会名誉会長は、1983年以来、毎年、創価学会インターナショナルの日125日に世界へ向けて記念提言を発表しています。

マハトマ・ガンディー(浦田広朗ほか訳)『私にとっての宗教』新評論、1991
「私は、宗教という言葉によって、形式的あるいは慣習的な宗教を言っているのではない」。「宗教はわれわれの行為のすべてに浸透していなければならない」−−。本来、宗教とは人間のために存在する。しかし、現実には、人間が宗教のために奉仕してきた。このアポリアは宗教だけに限らずあらゆる協同に必然する。人間の隷属と他者の悪魔化を柔軟に退けるためには、人間を人間として尊重するというシンプルな原点に不断に立ち返るほかない。その隘路を丁寧に腑分けするガンディーの思索は、現世からの撤退ではなく挑戦を示唆してくれる。

<提言からの抜粋>
一人一人が、自分の行動によって影響を受ける人々の存在を思い浮かべ、その重みを絶えず反芻しながら、「本当の自己」を顕現する手がかりとして、人間性を磨いていく。その営みが積み重ねられる中で、政治や経済のあるべき姿への問い直しも深まり、再人間化に向けた社会の土壌が耕されていく−−。「中道」の真価は、この変革のダイナミズムにこそあると、私は強調したいのです。
第40回「SGIの日」記念提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」[2015126]

マーサ・ヌスバウム(神島裕子訳)『正義のフロンティア 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』法政大学出版局、2012
<提言からの抜粋>
 社会契約説などの伝統的な理論が、高齢者や子ども、女性、障がいのある人などを、対象に入れずに構想されてきたことを指摘する博士は、こうした人々の苦しみが見過ごされがちな要因の一つとして、功利主義を挙げ、その危険性をこう述べています。「ある個人の大いなる苦痛と窮乏は、複数の人びとの幸運がそれに超過することで相殺されうる。ここでは各人の人生は一度きりであるという、もっとも重要な道徳的事実が、ぬぐいとられている」 そこで博士は、「相互有利性」(互いの存在が利益を生むこと)を社会の唯一の基本原理であるかのように考える発想から脱却し、誰も排除しない「人間の尊厳」に基づく社会の再構築を呼び掛けました。 そしてまた、どのような人であっても、病気、老齢、事故などで、他の人々の支えを絶対的に必要とする状況が生じかねないという現実を見つめ、社会の軌道修正がすべての人々に深く関わる課題であることに思いをいたすべきであると、強調しています。
第40回「SGIの日」記念提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」[2015126]
正義の主体は常に「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の相互有利性のみを想定して、学問はこれまで、社会正義を構想してきた。しかし、果たしてそれで本当に正義は達成されうるのか。「自由かつ平等かつ別個独立の人びと」の基準は常に「富」と「所得」であったが、著者は、㈰生命、㈪身体の健康、㈫身体の不可侵性、㈬感覚・想像力・思考力、㈭感情、㈮実践理性、㈯連帯、㉀ほかの種との共生、㈷遊び、㉂自分の環境の管理、といった10項からなる「可能力アプローチ」を尺度に、排除を伴わない包摂という観点から新しい社会正義を提案する。包摂は常に排除とワンセットで運用されてきたが、それは人間の分断でもある。何かについて有用であることが人間としての存在証明となるのか。立場を問わず効率優先の歪な功利が人間を排除・分断する現代、希望を再び立ち上げるためには、人間観の更新を伴う想像力ある勇気を選択するほかない。

ジャック・マリタン(久保正幡・稲垣良典訳)『人間と国家』創文社、1962年。
20世紀を代表するネオトミストのジャック・マリタンは、ベルグソンに学んだ後に、カトリックへ向かい、常に「普遍的(カトリック)とは何か」を内在と超越の相即関係から探求した。本書はマリタンの公共哲学論といってよいが、注目したいのは、国家より先に人間を置いている点だ。曰く「人間は決して国家のためにあるのではない。国家こそ人間のためのものである」。近代社会が自明とする主権の概念そのものまでも相対化し、人間に即して公共空間の設定を試みる。常に流転するこの世のものごとを絶対化することこそが、人間を分断し対立を必然させてきた。生きるとは現在に内在しつつ、現在を超越する視座も同時に必要になる。「暗黒と全面的混乱の時代において、人類にとって最悪の誘惑は、道徳理性を放棄しようという誘惑である。理性は決して座をゆずってはならない」。

<提言からの抜粋> 
 国連は主権国家の集合体としての制約や限界に常に直面しながらも、一方で、国連を舞台に育まれてきた“国際社会としての意識”こそが、国連の本来の使命を果たす突破口となりうるということです。
 例えば、世界人権宣言に象徴されるように、国連憲章の精神を実現するために“どの国であろうと揺るがしてはならない原則”を明確に打ち出すことで、各国の政策にも影響を及ぼしてきました。世界人権宣言の起草に深く関わった哲学者のジャック・マリタンは、「理論的な考え方において対立している人々も人権のリストに関して純粋に実践的な合意に到達することができる」(『人間と国家』久保正幡・稲垣良典訳、創文社)と強調しましたが、異なる思想的、文化的背景を持ったメンバーが最終的に意見を集約させることができたのも、国連という場の力があったからだと思えてなりません。
第40回「SGIの日」記念提言「人道の世紀へ 誓いの連帯」[2015126]

エッカーマン『ゲーテとの対話(上・中・下)』岩波文庫 1968
場の共有から対話は始まる。対話によって引き出される世界像は、当の対話者すら瞠目する新しさをもっている。対話者は、時代と場の空気を巻き込んで、互いのことばを止揚し、新しい地平を切り開く。エッカーマンがゲーテとの対話の中で見出したものは、ゲーテ自らが予想しなかったものかもしれない。

ツヴァイク『昨日の世界(1)(2) みすず書房』1999
旅と思索で広い世界を見たツヴァイクを絶望させたものは、空間的にも知性的にも無限といって良いほど広がっている世界を一瞬にして劫火に投げ込んでしまう戦争の存在であった。暴力の忌避と、知性への憧憬が、これほど純粋な形で結実した人格も珍しいであろう。絶望から見えてくる世界こそ実像だ。

池田大作、L・ポーリング『「生命の世紀」への探求 科学と平和と健康と』聖教文庫、1996
科学は本来、人間とその生きる世界に献身すべき叡智である。しかし人間存在を脅かす核兵器の如き矛盾をも生み出してしまった。このアポリアにどのように応答すればよいのか。本書は「生命」をキーワードにその処方箋をめぐって科学者と信仰者が縦横無尽に論じた一冊である。人間同士の信頼や人間の生きる制度や規範に対する信頼の回復をも射程に秘めている。

池田大作、A・ペッチェイ『二十一世紀への警鐘』読売新聞社、1984
イデオロギーと世代の壁を超え、地球的問題群に挑むには何が必要か。精神の内なる変革を通じた社会レベルでの草の根運動の継続という倫理革命こそ、と二人は位置する。人間は自分自身への新たな理解を新たな役割を理解することによって初めて「壁」をおりはらうことが可能になる。二分法に囚われていては始まらない。

原作 三部けい 監督 伊藤智彦『僕だけがいない街 角川コミックス/TVアニメ  KADOKAWA/ A-1 Pictures2012/2016
 関わらなければ、引いて見ていればよく見えることがある。観察者を気どれば体良く立ち回れることもある。
一方で泥まみれになりながら「無様な一歩」を踏み出す人達がいる。目の前の人に手を差しのべるために。
その人達こそ雲の上の救世主ではなく「俺にとってのヒーロー」なのではないだろうか。

安田浩一『ルポ 差別と貧困の外国人労働者 光文社』2010
どこまで弱者を増産し続けるのだろう。ここで描かれた現実は、美しい国などとはとても呼べない日本の構造的な差別と搾取を裏付けている。痛みを感じない政治は、やがて犠牲者を何とも思わない強権政治と、戦争をいともたやすく始めてしまう武断政治へと傾斜していくだろう。悲鳴に耳を傾けよう。

上脇博之『追及! 民主主義の蹂躙者たち [戦争法廃止と立憲主義復活のために』日本機関紙出版センター 2016
民意を反映しているとは思えない安保法は、どのように生まれたか。とてもわかりやすい解説書。安保法により変化する自衛隊の役割や、小選挙区がいかに民意を反映しないか、などの問題点が、平易な表現で示されている。いますぐできる異議申し立てとしての落選運動の根拠も詳述。安保賛成議員一覧付き。

ジョセフ・ニーダム『文明の滴定 〈新装版〉: 科学技術と中国の社会』法政大学出版局 2015
西洋と中国を対比させてみるニーダムの視点には、常に大きな問題がつきまとう。なぜ中国は停滞したか、である。この解答を官僚主義に求めるならば、その官僚主義を構成した倫理の欠如こそ、腐敗と独善を招いた根底的な要因と言えまいか。とすると、これは中国の歴代王朝と官僚に限ったことではない。

大和岩雄『日本にあった朝鮮王国―謎の「秦王国」と古代信仰』白水社 2009
渡来という言葉の豊かさを、ふたたび思い出させてくれる一書。異分子を排撃する昨今の風潮には、本来、この列島が歴史的に恩恵を受けてきた渡来者への尊敬と共感が欠けている。多様性は、独善を最も嫌う。一読して渡来文化の豊穣さに驚嘆した人は、単一民族という虚構に騙されることもなくなるだろう。

むのたけじ(聞き手・木瀬公ニ)『日本で100年、生きてきて』朝日新書 2015
著者は敗戦のその日、戦争責任から朝日新聞社を退社し、故郷で週刊新聞を刊行し続けてきた100歳の現役記者だ。本書はこの国の矛盾を見つめながら希望を展望し続けたむのさんからの私たちへのメッセージだ。「人間主義の原点は、戦争をやらせないこと」。「あきらめることをあきらめてまっすぐに努力すれば人間の願いはきっと実を結ぶ」。

橋本明『棄民たちの戦場―米軍日系人部隊の悲劇』新潮社 2009
第二次世界大戦中、ハワイの日系移民は敵とみなされる偏見に抗するために、志願兵として最前線に赴くことを選んだ。そこには国家に属さなければ社会生活が成立しないという歪んだ社会の構造がある。健全で穏健な個人主義としてのアナキズムすら許さないのが、国家主義であり、日本的な全体主義である。

柿崎明二『検証 安倍イズム 胎動する新国家主義』岩波新書 2015

国家性善説から出発する安倍イズムは介入政治をその特色とする。善いことを国家がやっているのだから文句を言うなとばかりに。本書はその思考と意志を首相の言葉から検証する。国家はそもそも万能ではないし、国家の善意を信じることは「国民のために」から「国家のために」に反転しやすい。押し付けの善意は不要、「勝手に決めるな!」