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選書プロジェクト 第7号

ネットプリント番号:31284211(2/17まで)


― SGI提言に学ぶ(下) ―

希望とはどこからくるのでしょう?
いつかなりたいものになる。いつか生活が安定する。いつか争わずにすむようになる。いつか穏やかな気持になる。いつか誰からも好かれる自分になる。そして、いつか、しあわせになる。こうしたものが、希望の内実ではないでしょうか。それにくらべて、いまのわたしを考えてしまいます。まだなりたいものになれていない。まだ生活が安定していない。まだ争ってばかりいる。まだ穏やかな気持ちになれない。まだ私のことを嫌いな人がいる。そして、まだ、しあわせではない。日々の空虚さと無力感から、だれか「力あるひと」に自分のしあわせを任せてしまおう、とするのは希望が満足したように思う、最も手っ取り早い方法かもしれません。
では、その力を付託された「だれか」はどうでしょう?その人も同じ人間です。だれか「力あるひと」に頼ろうとするのは、あなたと同じです。こうして、依存の連鎖が生まれていった結果を想像してみてください。そうすると、空虚や無力感など私には無いと豪語する人が最終的に「頼もしい存在」となってしまうでしょう。そのようなひとは、自信に満ちた力強い存在にみえまず。でも、その実は、人間の痛みや弱さへの想像力が弱い、力の信奉者であったことが、多くの歴史の悲劇から私たちが学んできたことです。そうしたひとは、自分の弱さを覆い隠すために、武力や資産といった容易に手に入る「力」で、自らをかためてしまうのです。そして、その人に頼ろうとする人たちも、武力や資産といった「力」を神のごとく思い、自らの空虚や無力感がそれによって無くなったと思ってしまうのです。けれども、本当にそうでしょうか?

希望とは、誰かに託すことによって、いつのまにか消えてしまうものです。自らの足で立つ人だけが、希望を消さずに生き続けることができるでしょう。ここに掲げた書籍は、希望を灯し続けるあなたに寄り添いつつ、その灯火をさらに大きく育ててくれる、わたしたちの友です。それを信じて、わたしたちは今日も読み、書き、語り続けます。そして、それこそが毎年1月26日に発表されるSGIの日記念提言の底流にある大いなる希望だと私たちは信じています。

世界の問題に立ち向かうのは、専門家だけではありません。わたしたちの生活の場そのものが、世界なのです。誰かが何か大きなことをしてくれるのを待つのではなく、わたしたちの身近の小さなことから変えていくことで、かならず世界は変わって行きます。高らかな暁鐘を打ち鳴らすのは、個人としての、あなた自身です。あなたが誰かに託したりしない限り、希望は消えません。希望はあなたと一緒にあり続けます。

あなたに寄り添う、この本たちと同じように。

※池田大作創価学会名誉会長は、1983年以来、毎年、創価学会インターナショナルの日1月25日に世界へ向けて記念提言を発表しています。



V・E・フランクル(F・クロイツァー編、山田邦男、松田美佳訳)『宿命を超えて、自己を超えて』春秋社、1997年)
本書は、アウシュヴィッツの生き証人である著者の講演や対談をまとめた一冊で、さながらフランクル自身によるフランクル入門となっている。人間は「意味」を見いだせないとき、絶望の淵に立たされる。苦悩に打ちひしがれることなく、人生を切り開くにはどのようにすればよいのか。言葉による「精神の抵抗力」を鍛え直すほかない。「人間は自分を変えうる存在である 精神の抵抗力は病気にも無効ではない 状況を超えて」。

<提言からの抜粋>
フランクル博士は、苦難に直面した時の人間精神による応戦劇の真骨頂を、次のように記しています。
 「重要なのは、避けることのできない人生の運命的な打撃をどのような態度で、どのような姿勢で受け止めるかである。したがって人間は、最後のいきを引き取るそのときまで、生きる意味をかちとってわがものとすることができる」(フランクル『宿命を超えて、自己を超えて』)
 博士はこの人間精神による応戦を「態度価値」と名付けました。それは、「どのような条件、どのような状況のもとでも人生には意味がある」との思いを奮い起こし、苦難と向き合う中で、その声明の輝きが苦しみを抱える他の人々を勇気づける巧妙となり、「自分個人の悲劇を人類の勝利に変える」道をも開く価値創造に他なりません。

39回「SGIの日」記念提言 地球革命へ価値創造の万波を 2014年1月26日

創立者は、提言の冒頭でレジリエンスの概念を取り上げ、人間の内発性による人間のエンパワーメントを説いている。その筋道において、フランクルの人間精神の応答劇は、人格の価値を重視し、軍部権力と対峙したために投獄された牧口常三郎の軌跡と交叉するのではあるまいか。私自身が私の生きる意味を大切にする人間であってこそはじめて他者によりそうことも可能になると思う。【吉川大河】

ネルソン・マンデラ(東江一紀訳)『自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝 上・下』(日本放送出版協会、1996年)
人権闘争の仰ぎ見るべき先達の一人が南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領だ。本書は誕生から大統領就任へのその「長い道」をあますところなく語り継ぐ大著の自伝だが、一気に読んでしまうことができる。状況分析と人物判断のシビアさでマンデラを超える人間は他に見いだせない。しかし、マンデラは差別をする人間の中にも善性を見出そうと試みる。その姿は、不軽菩薩を彷彿とさせる。獄中27年間。節を曲げない人間こそ人間である。
<提言からの抜粋>
 翻って現代においても、核兵器の境位や環境破壊のように問題が深刻であればあるほど、できるだけ考えないでおきたい課題として遠ざけようとする風潮が強く、たとえ危機意識を持った人でも、自分一人が行動したところで何も変わらないとあきらめてしまう場合が少なくありません。
 その無意識や無気力の壁を破るには、マンデラ氏が「人間として、何もせず、何も言わず、不正に立ち向かわず、抑圧に抗議せず、また、自分たちにとってのよい社会、よい生活を追い求めずにいることは、不可能(『自由への長い道(下)』)と叫んだような“使命感”や、環境活動家のワンガリ・マータイ博士が「私たちは、傷ついた地球が回復するのを助けるためにこの世に生を受けた」(アンゲリーカ・U・ロイッター/アンネ・リュッファー『ピース・ウーマン』)と述べたような“誓い”に貫かれた行動が、何よりも必要となってくると私は考えます。

39回「SGIの日」記念提言 地球革命へ価値創造の万波を 2014年1月26日

筆者は、1990年、創立者池田先生がマンデラ氏と初の会見の折、その歓迎の席に臨んだ人間である。誰かがやるから、私は立ち上がらなくてもいい、という他者依存を拒否することをその時に学んだ。諦めることこそが「人間」を無効化してしまう暴力に連動してしまう。だからこそ人間を尊重しようと「誓願」して立ち上がるしかない。そのことを今あらためてかみしめている。【三谷良典】

アマルティア・セン(大門毅監訳、東郷えりか訳)『アイデンティティと暴力』(勁草書房、2011年)
センの関心は一人ひとりの個人にある。それが氏の人間の「生存」と「生活」を重視する「人間の安全保障論」の根柢にある。故郷で経験した飢餓の経験や、ムスリムだというだけで目の前で殺されたカデル・ミアとの出会いがその出発点なのだろう。多発する紛争の多くや残虐行為は、選択の余地のない唯一のアイデンティティという「幻想」を通じて発動・拡散・継続させられている。本書は憎悪をかきたてる「アイデンティティ」をキーワードに、テロと暴力の連鎖にどう向き合ったらいいのか、ひとつの処方箋を示した渾身の一冊だ。

<提言からの抜粋> 
 一人の人間には民族や宗教だけでなく、さまざまに自己を規定する要素が複層的に折り重なっています。この「アイデンティティの複数性」が、現代において人々が集団心理や暴力的な扇動に押し流されないためのカギになると訴えたのは、経済学者のアマルティア・セン博士でした。
 幼い頃、紛争で多くの人が“宗教の違い”だけを理由に命を奪われる姿を目にして、深く胸を痛め、その悲劇を防ぐための研究と思索を続けてきたセン博士は、「たとえ暗黙のうちにあっても、人間のアイデンティティは選択の余地のない単一基準のものだと主張すること、人間を矮小化するだけでなく、世界を一発即発の状態にしやすくなる」と警告した上で、こう述べています。
 「問題の多い世界で調和を望めるとすれば、それは人間のアイデンティティの複数性によるものだろう。多様なアイデンティティはお互いを縦横に結び、硬直した線で分断された逆らえないとされる鋭い対立にも抵抗する」(『アイデンティティと暴力』)と。
 同じ民族に属していようと、同じ宗教を信じていようと、育った環境も違えば、職業や趣味も違い、信条や生き方も異なる。人それぞれ千差万別なのが、世界の実相です。民族や宗教の違いとは位相を異にしつつ、人間と人間の一対一の関係において、さまざまなアイデンティティが時に交錯し、共鳴し合う可能性が常に開かれている。

第38回「SGIの日」記念提言「2030年へ 平和と共生の大潮流」 2013年1月26日

世界を真に人間的なものにするには、様々なラベルを取り払い対話を通して語り合うほかない。創立者の対話の軌跡はその美しき見本である。そして徹底的な対話と当時に必要なことは、人間を無効化してしまう暴力とそれを容認してしまう反知性主義と生-権力には徹底的に抗わなければならない。対話と対峙の両輪こそ人間を人間らしくする。本書『アイデンティティと暴力』の副題は「運命は幻想である」。運命を柔軟に退けたい。【窟】

中村元『ゴータマ・ブッダI』、『決定版 中村元選集』第11巻(春秋社、1992年)
釈尊は信仰対象として礼拝され人々の祈願の対象となっている。それは超人的な神通力をもつ「仏」との受容だが、釈尊は人間ではなかったのか?本書は、東西の叡智に遍く通じた稀代の碩学が、その足跡をたどり、実像を明らかにする名著である。ゴータマ・ブッダとは、釈尊の人間としての姓である「ゴータマ」と、修行の完成者「ブッダ」を表し、即ち「人間ブッダ」をそれは意味する。秘伝を排し、人間としての完成の道を不断に歩み続けること仏教の真髄--釈尊の生涯はそのことを語り継いでいる。

<提言からの抜粋> 
 その上で、この逸話を、他の経典における伝承と照らし合わせると、もうひとつの釈尊の思いが浮かび上がってきます。
 −−釈尊は、修行僧の介護をした後、弟子たちを集めて、次々と尋ね聞いた。その結果、修行僧が重病に苦しんできたことも、どんな病気を患っていたかも、弟子たちが以前から承知していたことを知った。
 にもかかわらず、誰一人として手を差し伸べようとしなかったのはなぜか。
 弟子たちから帰ってきた答えは、修行僧が病床で語っていた言葉の鏡写しともいうべき、「彼が他の修行僧のために何もしてこなかったので、自分たちも看護しなかった」との言葉だった(「律蔵大品」から趣意)。
 この答えは、現代的に表現すれば「日頃の行いが悪いから」「本人の努力が足りないから」といった自己責任論に通じる論理といえましょう。それが、修行僧にとっては運命論を甘受する“あきらめ”となって心を萎えさせ、他の弟子たちにとっては傍観視を正当化する“驕り”となって心を曇らせていた。
 そこで釈尊が、弟子たちの心の曇りを晴らすべく、気づきを促すように説いたのが、「われに仕えようと思う者は、病者を看護せよ」(『ゴータマ・ブッダI』との言葉でした。
 つまり、仏道を行事るとはほかでもない。目の前で苦しんでいる人、困っている人たちに寄り添い、わが事のように心を震わせ、苦楽を共にしようとする生き方にこそある、と。

38回「SGIの日」記念提言「2030年へ 平和と共生の大潮流」 2013年1月26日

提言では「ここで留意すべきは、そうした過程で尊厳の輝きを取り戻すのは、苦しみに直面してきた人だけでなく、その苦しみを共にしようとする人も同時に含まれているという点」ですと創立者は指摘しています。弱者に対するバッシングをはじめとする自己責任論こそ人間を人間として取り扱わない魔性の論理。驕りに丸め込まれてはいけません。

池田大作、M.ゴルバチョフ『二十世紀の精神の教訓 上・下』(潮出版社 1996年)
現代が直面する最大の課題は、「人間の危機」であり、「人間の尊厳の危機」である。二人の対談者は、戦争の20世紀の経験を冷静に見据え、「新たなヒューマニズム」を論じ合う。キー概念は「多様性そのものを価値として提示する」こと。日常性から出発し、その日常性そのものを再活性させる以外、多様性と相互尊敬は生まれ得ない。

新崎盛暉『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書 2016年)
沖縄辺野古の基地をめぐっていま起きていることを認識するには、日本が沖縄をどのように扱ってきたかという歴史的認識だけではなく、日本政府がどのような「差別」を行い、それに対してなぜ皆が黙っているかという現状を踏まえる必要がある。この沖縄問題の最新刊は、それに大きな示唆を与えるものだ。

ミルトン・メイヤロフ『ケアの本質』(ゆみる出版 1987年)
希望は身近な誰かとの関わり(ケア)を通して生まれてくることを示している。そこには、一方的な関わりとしての指導ではなく、自他の差別を超越するところから始める対話への道筋が示されている。「私のケアをとおして相手が成長していくという希望(Hope)がある」とは、そのような文脈でこそ活きてくる。

光本滋『危機に立つ国立大学』(クロスカルチャー出版 2016年)
功利主義を優先させ、批判的に考えることを許さない勢力が、社会を方向づけようとしている。それが端的に現れているのが、批判的に物事を考える訓練をする場である大学への統制だ。本書は大学が国家戦略に利用される危機を可視化することで、国家の思想統制がどのように行われていくかを明らかにする。

高橋俊介 『スローキャリア』(PHP研究所 2004年)
仕事に対する強迫観念。これこそが現代の職業人が罹患しがちな病だろう。それは社会への参画自体を不可能にし、たんなる社会の歯車のひとつとして、代替可能な軽微な存在へと自分を貶める。こんな人権侵害を「働き方」と矮小化する社会こそ、犯罪的だ。本書はそこからの訣別を促す

平川克美 『俺に似た人』(朝日文庫 2015年)

父親の介護を通して見えてくる社会のありかた。日本は幸福な国などではなく、一人の努力にすべてを押し付ける無責任な国なのだと思えてくる。あらゆる矛盾と重圧のなかでも、介護の当事者である著者の筆は明るい。それに救われる思いがする。