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選書プロジェクト 第14号

ネットプリント番号:94659247(5/25まで)

ー宗教の倫理と公共性ー
「汝須く一身の安堵を思わば、先ず四表の静謐を祷らん者か」(あなた個人の安寧を願うなら、世界の平和を祈りましょう。)

日蓮の主著『立正安国論』末尾近くの言葉です。日蓮の「くに」は民が中心でした。安国論のもともとの題字も、くにがまえの中に「民」でした。国家主義者に利用された時期もありますが、日蓮の国家思想は実はかなり合理的で民主的です。しかし、時代が下って、近代市民革命を経て、西洋では「世俗化」と呼ばれる動きが、大きくなります。日本でも、宗教は現実政治に対する影響力を減じていきます。宗教は次第に公的な領域から退いていったわけです。

ただ、そうは言っても、西欧キリスト教社会では、教会や修道会が、病院、救貧、孤児院、老人施設、学校などの民間のソーシャルサービスを担ってきた長い歴史があります。日本では最近まで宗教は個人が私的な場面で思い行なう事柄であって、殊更に宗教者が地域で社会的な活動を行うことを喜ばない傾向がありました。もちろん、歴史を辿れば、日本の寺社も、近代以後ではキリスト教団も、社会活動に熱心な場合もありました。しかし、第二次大戦後、「政教分離」という言葉が普及するに連れ、宗教が本来持っていたはずの「公共性」や「活動性」が薄められていったように思われます。

政教分離とは、本来は「国家と教会の分離」であり、いわゆる「国教」の廃止であって、決して宗教信仰者の政治活動を禁止するものでありません。まして、信仰者が社会活動をすることを妨げるものではないはずです。

ただ、21世紀に入って、流れが変わりました。地域社会での宗教者と宗教教団・施設に対する評価が変わったのです。阪神大震災、東日本大震災、そして今回の熊本・大分大震災で宗教者と宗教施設が果たしている人道的な役割は目覚ましいものがあります。避難者の支援に加えて、慰霊やカウンセリングなどの「心のケア」にも大切な働きをしています。それは、宗派や教団の枠を越えています。宗教は、日本においても、もはや私的な救いに奉仕するだけではなくなってきました。
宗教を軽視したり否定したりすることがあたかも社会の進歩であるかのように言われた時代を経て、今や宗教を活かす時代に入ったように思います。平和や環境などの公的な領域について積極的に発言する教団が増えています。ただ、権力が宗教を利用することには警戒すべきでしょう。宗教者自身が、自らを律することもまた必要な時代なのです。

アリス・ハーズ 『ある平和主義者の思想』 (岩波新書 1969)
厳格なクウェーカー教徒だったハーズの焼身自殺は、ベトナムで弾圧に抗議して焼身自殺を遂げた仏教徒ティック・クアン・ドック師の影響だとされる。弾圧への抗議と平和への希求を、宗教的信念に基いて思索した結果、そこまで思いつめさせた政治の鈍さに激怒する。絶望的な状況は今も変わっていない。

グスタボ・グティエレ 『解放の神学』 (岩波現代新書 1985)
宗教は何のために存在するか。「貧者の解放のためである」と明確に言い切ったのが、「解放の神学」である。ラテン・アメリカでは政治の混乱が、人権侵害と貧困をもたらした。それに抗し生活者を守る働きを「解放の神学」はしてきた。日本の政治の混乱に抗し生活者を守る解放の宗教は、どこにあるか。 

菅野完 『日本会議の研究』 (扶桑社 201651)
安倍政権のブレーンを含む多くの政治家に影響力を持ち、ー大政治勢力となっている日本会議。本書は地道な調査に基づいてその実態に迫っている。すべての始まりは半世紀近く前の「反左翼」の学生運動。そして、それを支え続けるある宗教の原理派の団結。右派の執念と連帯を、左派こそが学ぶべき。

テリー・イーグルトン(大橋洋一、小林久美子訳)『宗教とは何か』(青土社、2010)
ユダヤ・キリスト教における「神」をめぐり、ドーキンスやヒッチンス等らの宗教を非科学的「妄想」として批判する科学的・合理主義的論難を快刀乱麻に斥ける。「およそ似つかわしくない人」による宗教が政治的に重要な意義を持つとの現代批評だ。 
著者は、宗教と科学、キリスト教と進化論、信仰と理性某等々、宗教にまつわる様々な論難を取り上げ、宗教に注目する意義を語る。冷戦構造の崩壊は宗教の復活を促し、社会主義やナショナリズムが引き受けてきた課題を宗教が引き受けつつある。
 宗教が現実的諸問題をパーフェクトに解決することは不可能であろう。しかし宗教運動は、グローバル資本主義下の現実と向き合い格闘している。宗教を妄想と斥ける論者たちはどこに定位するのか。彼等は全く無視している。
 権力に処刑されたイエス=キリストと、原点から乖離したキリスト教会。そして西洋文明による搾取と差別の歴史に真正面から取り組む著者の姿勢と、科学の積極性のみを楽天的にとらえ、暗部を顧みないドーキンスら批判者との違いは大きい。

島薗進 『国家神道と日本人』 (岩波新書 2010721)
戦前の「国家神道」は、草の根の運動が支えていた。筆者は、国家の政策と天皇家の祭祀と地域の運動とが連携した姿を描いた。そして、今なお、天皇家の祭祀として「国家神道」が生き残っていることを指摘する。日本会議など、明治憲法の復活を願う動きが注目され始めた現在、再読されるべき古典的とすら言える業績である。

小川原正道『明治の政治家と信仰 クリスチャン民権家の肖像』(吉川弘文館 2013)
本書は、片岡健吉、本多庸一、加藤勝弥、村松愛蔵、島田三郎を取りあげその生涯を辿りながら、政治と信仰という外と内の関係を論じる一冊。近代日本の「良心」はキリスト教が担ったと言っても過言ではないが、彼ら自身は教会主流派とは言い難い。政治と信仰の相剋の苦悩、葛藤し、迷いは示唆に富む。

ロバート・N・ベラー、島薗進、奥村隆編『宗教とグローバル市民社会』(岩波書店 2014)
本書は、グローバル市民社会における市民宗教の可能性を宗教社会学の巨匠が大胆に論じた魅力的な一冊である。現代の政治的な課題とは、弱肉強食を自明視する新自由主義の是正である。その課題は、抗う側の宗教の課題でもあるとベラーは言う。グローバルな連帯には宗教的な動機必要だからだ。注目すべきは丸山ファシズム論をめぐるベラーの評価である。自己中心的な関心を超え、他者へ向かう宗教的意識は民主主義につながると論ずる一方、排外主義と歴史修正主義に傾きがちな現代日本にも警鐘を鳴らす。普遍的連帯には、絶対的な信念の発露は普遍的連帯には欠かせない。しかしどのように導くかは、信仰者一人ひとりの課題である。ベラーの叡智は、現代世界の挑戦に対する応戦のひとつモデルとなり得よう。

小島信泰 『最澄と日蓮―法華経と国家へのアプローチ』 (第三文明社 2012)
最澄と日蓮という法華経思想の巨頭が抱いた国家思想の意義を論じる。牧口常三郎と宮沢賢治の法華経観にも言及。彼らの共通点は、聖俗平等と現世主義。筆者はリベラルな視点でこれらの思想家を評価する。優れた法華経思想論である。

大田俊寛『現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇』 (ちくま新書、2013)
二元論的思考こそ、19世紀以降の宗教運動に共通する要素である。本書はその根幹を「霊性進化論」ととらえ、神知学からラエリアン、幸福の科学にいたるまでの系譜を明らかにする。霊性進化論とは進化論と輪廻転生のコングロマリットであり、世界観は陰謀論だ。カラクリを知った私たちと洗脳されている大多数の人々とという善悪二元論と排他主義的選民思想の跋扈と構造は、宗教だけの問題ではない。

荒木飛呂彦 『ジョジョの奇妙な冒険 4 ダイヤモンドは砕けない』 (原作:集英社 アニメTVシリーズ:david production 原作1992/ アニメーション 2016)
著者はかつて作品を貫くテーマ「人間賛歌」とは「『人間』を否定しないこと」であると語った。作中のキャラクターは非道な悪役でさえ華麗に魅力的に描かれる。
少年漫画において正義と悪との対決は常につきまとうテーマであるが、時に人間をカテゴライズし排除へと暴走するのもまた「正義」である。本作品のテーマ「人間賛歌」と「正義」とは一見、両立し難いテーマのようにみえる。しかし正義と邪悪との火花を散らす戦いなくして魅力ある少年漫画は成立しえない。
本作品では正義そのものではなく「正義の輝きの中にある」精神に焦点を当てることで、正義を確立しつつも正義に潜む鋭利さや排他性を乗り越え、作品を既存の正義と悪の二項対立に収まらない魅力あるものとしている。
『人間賛歌』と並ぶ本作品の代名詞『黄金の精神』の概念が初登場するシリーズ4作目。
邪悪を前に恐怖に打ち勝ち抗い続ける人間の精神は、どんなスタンドでも砕けない。

ジョン デューイ(栗田修訳)『人類共通の信仰』(晃洋書房、2011年。)
宗教の源泉はどこに存在するのか。デューイによれば、経験の「宗教的性質」に存在するという。個々の制度宗教の伝承にのみ準拠するというのが伝統的な解釈であったが、宗教(制)は、時として、人間の宗教(性)を歪めてしまうこともある。だとすれば、歴史性をふまえたうえで、人類に共通する宗教「性」を重視するデューイの眼差しは、宗教間抗争におけるドグマティズムを撃つ示唆となろう。

上田紀行 慈悲の怒り 震災後を生きる心のマネジメント (朝日新聞出版 2011611)
東日本大震災直後の刊行。震災と原発事故。後者は明らかに人災である。人災の責任者の怠慢に怒らないことはむしろ慈悲の精神に反すると著者は述べる。仏教の慈悲は。正義の怒りにつながるはずである。諦念や観想ではなく、行動こそが仏教なのである。

ミロス・フォアマン 『カッコーの巣の上で』(ワーナーホームビデオ 1975)
刑務所の強制労働を逃れるべく精神異常を装った男が、人権を無視した病院の桎梏から患者らの開放に挑む。男はロボトミー手術で生ける屍となり、静穏に戻ると思いきや無口で狂人と見えた先住民族の大男が、ガラスを大破し逃亡する象徴的なラスト。

マーク・ユルゲンスマイヤー、立山良司(古賀林幸ほか訳)『グローバル時代の宗教とテロリズム いま、なぜ神の名で人の命が奪われるのか』(明石書店、2003)
 キーとなる概念は「コズミック・ウォー」。暴力の連鎖を続ける人間は、秩序や真理の確立を妨げられた被害者意識を原動力に、妥協のない善と悪といった二項対立でのめり込む。これは宗教だけに限定される話ではない。
 単純に宗教を断罪するのではなく、「宗教的イマジネーションが今日なお公的な場で力を保持していること、そして多くの人が宗教のなかに主義主張よりも暴力からの癒しを求めようとしている」ことから理解するほかない。
 世俗主義は、前時代に対する反省からの当然の要請としても、公的空間が実際のところ特定の価値観を代表する形で、価値並立が歪つになった場合、それは批判・再構築されてしかるべきであろう。前近代に対する反省を踏まえ、それぞれの唯一性・垂直性は尊重されなければならない。
 異なる他者と共に生きるということは、排除によって成立するのでもなければ、妥協の産物でも決してない。むしろ単純さや無視を決め込むのではない、ねばり強い根気づよさが必要なのだろう。

島薗進・磯前順一() 『宗教と公共空間: 見直される宗教の役割』 (東京大学出版会 201482)
近年の宗教の公共性をめぐる議論をまとめた論集。ヨーロッパでも日本でも、20世紀末から宗教の倫理と公共性が注目されてきた。リベラルな思想家が宗教者と対話を始めたのである。これもまた、社会の進歩である。

島田裕巳 『宗教消滅―資本主義は宗教と心中する』 (SB新書 2016215)
グローバルな宗教変動を分析した問題作。宗教学者の著者は近年はグローバルな資本主義の問題も論じている。日本では既成宗教も新宗教も衰退しつつある。それは、信者の高齢化が背景にある。世界規模でも、資本主義の展開は宗教の役割を減じさせると言う。イスラム教人口の成長もまた経済から説明する。著者のセオリーに目新しさはないが、総括的な視点は一読の価値がある。

ディスカバリーチャンネル()『バチカン 超時空の聖都市』(角川書店 2005)

カトリックの総本山バチカンの総合的な紹介DVD。ヨハネ・パウロ2世時代の映像だが、インタビューが秀逸。特に附属天文台の担当神父の教会批判は興味深い。宣伝と正当化だけではない。

遊川和彦脚本『さとうきび畑の唄』(TBSエンタテインメント 2004)
森山良子の「さとうきび畑の唄」をモチーフにつくられた沖縄戦を題材にしたドラマ。全体的にはソフトなつくりだが、見やすい作品になっている。明石家さんま演じるひとりの男性が、「戦争反対」という心の内を戦場でも吐露する場面に、戦争は何の利益ももたらさないことを感じる。

ナショナルジオグラフィック()『ユダの福音書 イエスと”裏切り者”の密約』(ナショナルジオグラフィック 2006)
実際は数多くあった「福音書」。神話となった原始キリスト教発生の物語を相対化する資料が現れた。ユダは裏切り者ではなく、哲学的な同志だった? 信者の団結のために聖書は選ばれた? ドキュメントとドラマで描く聖書成立の謎。評者は「笑うイエス」像に興味あり。