ラベル

選書プロジェクト 第4号


ネットプリント番号:41734621(1/21まで)

― 社会変革の先駆者たちに学ぶ ―

「わたしは、ひとりの人に可能なことは、万人に可能である、とつねに信じている。」
――マハトマ ガンジー(蝋山芳郎訳『ガンジー自伝』中公文庫、2004年、15頁)

 世の中がおかしい、何とか良くしたいという善意を誰しも持ちますが、なかなか形になりません。なぜでしょうか? 私には出来ないという臆病もあれば、変化を望まない体制への忖度(そんたく)もあれば、何をやっても変わらないという諦めもあると思います。

 しかし「おかしい」ものを放置して良いわけがありません。そして「おかしい」ことに抗うために必要な勇気と知恵は、私たちの善意を挫折させるほど敷居の高いものでもありません。

 今回、私たちは、社会福祉や看護、人権の確立など社会事業に関わる「抗う」先駆者たちの取り組みを紹介する本を選書しました。人に寄り添うこと、助け合うことに敷居の高さなどありません。敷居を高くしているものとは一体何でしょうか?それは、「前例がないから出来ない」という言葉に代表されるように、やり方を変えたくないというシステムに依存する私たち自身の臆病・無関心ではないかと思います。やり方をかえなければ、世の中がおかしい状態は一向に変わりません。

 見たこと、感じたこと、考えたことの違和感を、見なかったこと、感じなかったこと、考えなかったことにしないこと−−。このことが今、最も必要とされています。敷居は高くありません。まずは一人ひとりの人間が自立することから始まるのではないでしょうか。




池田大作/ノーマン・カズンズ『世界市民の対話』(聖教文庫、2000年)
「行動する思想家」カズンズと池田大作が強く一致するのは、「国家観を変革しなければならない」という点である。池田は「世界がしかるべき連邦化へ進みえないときには、自由を脅かす全体主義的な勢力が力を増加する」と指摘し、平和憲法や国連の意義を強調する。戦争をいかに防ぐかという智慧を皆で出し合わねばならない。

湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日文庫、2015年)
政治家が悪い。投票しても変わらない。シニシズムとは「シカタガナイ」と誤魔化してるだけではありませんか。私たちは、主権者なのに、主権者でないように振る舞うから自己撞着を起こしてしまう。それでいいのですか、本当に。諦めるわけにはいかないし、諦めるなんてとんでもない。本書は現実と格闘するための道しるべ。「これは、政治家の問題ではありません。私たち自身の問題です」。

アルンダティ・ロイ(本橋哲也訳)『民主主義のあとに生き残るものは』(岩波書店、2012年)
禿鷹資本主義と民族主義が人々の生活を脅かし、「民主主義」がその暴力を正当化しているのが21世紀の帝国主義だ。その侵略には国境はなく希望は見出し難いが、インドで小さな抵抗を続ける作家の軌跡に曙はある。「歴史は繰りかえすものだと信じる理由はどこにもない。歴史が強制的に繰りかえされてしまうものでないかぎり。そのような悲劇をつくりだすために人びとが自発的に活動しない限り」。

小松裕『田中正造 未来を紡ぐ思想人』(岩波現代文庫、2013年)
文明の危機が深刻化するたびに、蔓延するシニシズムと悲観主義。こういう時代だからこそ、参照したいのが「人間でありつづけること」を開拓してきた田中正造の思想的格闘と実践である。「弱のまゝ」で「弱きを救ふ」。無所有の思想、平和主義、人権と自治思想に基づいた正造の民主主義思想こそ、横暴に抗う模範たり得る。

上野千鶴子『ケアのカリスマたち 看取りを支えるプロフェッショナル』(亜紀書房、2015年)
国が頼りにならない以上、庶民は知恵を絞って自らの老いを設計しなくてはならない。しかし、頼もしいプロフェッショナルが人生設計に新たな可能性を開いてくれている。制度の不備によって切り捨てられる人々を、ここに描かれたような一人ひとりに寄り添う個人と民間組織が救っているのは、せめてもの希望だ。

島薗進『宗教・いのち・国家: 島薗進対談集』(平凡社、2014年)
大阪市西成区で路上生活者の支援をしている本田哲郎神父との対談では、聖書の「愛」という言葉について深い洞察がなされている。当初は「お大切」と訳されていた言葉が、いつの間にか「愛」に置き換わったことで、相手を見ずに自己の内面だけを見るようになってしまったとの指摘に、現場の私たちは深く納得する。

太田祖電、増田進、田中トシ、上坪陽、田辺順一『沢内村奮戦記―住民の生命を守る村』(あけび書房、1983年)
村長の発案のもと、保健看護医療と住民が一体となって、自分たちの健康を守る行動を始めたのが、この岩手県沢内村。人間的な生活とはなにか、それがいのちを守る視点から見えてくる。「健康管理とは平時における安全保障である」という広く流布した言葉の真の意味が、この本を読むと、よく分かる。

ぶな葉一『北御門二郎 魂の自由を求めて: トルストイに魅せられた良心的兵役拒否者』(銀の鈴社、2014年)
北御門二郎師が、良心的兵役拒否を決めた理由は、トルストイの文学的影響もさることながら、軍人が残虐さを自慢するような時代に抗う倫理性にあった。本書で描かれる戦前戦中の狂気が、いま再び蘇ろうとしている。北御門二郎師が半農半訳の生活を続けながら発信した思想を、いまこそ取り戻そう。

吉村昭 『長英逃亡』(新潮文庫、1989年)
蘭学者として並ぶもののいない碩学、高野長英は幕府の政策を批判したことにより、投獄され、後に破獄して一生を逃亡しつづけなければならなかった。ひとりの学問を志す人間が、政治に翻弄され、法に縛られ、それでも学問を続けた姿と、それを死を覚悟して支えた友人達の心根に、深い感動を覚える。

司馬遼太郎『故郷忘じ難く候』(文春文庫、2004年】
薩摩の苗代川焼のルーツは、秀吉が朝鮮半島に侵略した際に、拉致された陶工たちである。本書の主人公も沈氏その一人であり、国家の思惑と権力の横暴に翻弄されつつも、沈家は自らの生きる術である製陶に十数代にわたって精魂を傾けてきた。伝統文化は、こうした人たちによって支えられているのだ。

尾瀬あきら『ボクの村の話』(講談社、1994年)
成田に国際空港を作るという政治決断が、その地の農民にどれほどの混乱をもたらしたことか。生存権をかけて闘う農民たちと、怒りを利用しようとする人たち。子どもの目を通して描かれる成田闘争は、あらゆる人達の思惑が錯綜し、そこを政治に分断される悲劇を、日常の視点から描いている。

東大社研、玄田 有史『希望学 あしたの向こうに 希望の福井、福井の希望』(東京大学出版会、2013年)
とりたてて不満はないけれども、実際は満足していないのが日本社会の特色ではないでしょうか。そして不満がないことを理由に行政は、改めるべき問題を無視しようとします。実際には満足していないのだから現状維持はイコール幸福ではありませんよね。本書は、希望の紡ぎ方、即ち wish for something to come ture by action を示唆してくれます。

秋山理央『秋山理央写真集 ANTIFA アンティファ ヘイト・スピーチとの闘い 路上の記』(鹿砦社、2015年)
ヘイトスピーチに対して、それを食い止めるために闘う人たちをカウンターと呼ぶ。この写真集は、カウンターの人たちの表情やプラカード、警官隊に守られたヘイトスピーチ側の人達を写すことで、彼らが護ろうとしているものへの必死の思いを描く。京都でのカウンターで掲げられたユーモラスなプラカードは必見。

モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(みすず書房ほか、法政大学出版局、2015年)
思想史を塗り替えたフランス現代思想の名著に、看護の現場で出会うなどと誰が思うでしょうか。学生時代、倫理学を学び後に看護の世界へ転身しました。思想が現実を変えるってホントなんだと思いました。二元論の超越に人間の事実がありますね。西村ユミ『語りかける身体―看護ケアの現象学』(ゆみる出版)と併せて読みたい。

本田哲郎『釜ケ崎と福音 神は貧しく小さくされた者と共に』(岩波現代文庫、2015年)
布教を超え、日雇い労働者に寄り添い続けた本田司祭は、今日も聖書を原典で読む。その人がその人らしく生きる。その関わりがキリストのメッセージではないか。もう、勝ったのだの、負けたのだのに翻弄される生き方は辞めませんか。人間が存在するという事実に向き合いませんか。そのカルマを断ち切ることで人間は人間らしく共に生きていける。

作曲 Claude-Michel Schönberg
作詞 Herbert Kretzmer
『Do You Hear the People Sing?』
(「民衆の歌声が聞こえるか」/映画・ミュージカル 『Les Misérables』より)
題名である歌詞の後に「Singing a song of angry men? It is the music of a people. Who will not be slaves again!」と続く。勇ましき歌である。虐げられ続けてきた怒れる民衆の歌である。血生臭い歌詞もあるが、それは劇中のフランス革命に端を発する六月暴動のシーンで歌われているからであろう。暴政、反動政治が続く当時の社会変革とは文字通り武力を伴う革命とならざるをえない面はあり、現在でもフランス革命の評価は多様であるが、ユーゴーのフランス革命への評価は高い。ユーゴー自身政治家として、一人の人間としても死刑廃止運動等、社会の変革にその生涯を投じた人であった。そのユーゴーをして、原作で語るひとつの結論は「人をつくれ。人をつくれよ。」である。行動の中でユーゴーが見たものは、人間を虐げる現実を前に時に逃げまどい、時に仲間や信条を裏切り冷笑し、そして時に勇壮に立ち上がる人々の姿であった。作中でユーゴーが語る「それ(試練)を受くる時、弱き者は賤劣となり強き者は崇高となる」とは経験からの達観なのであろう。読書が著者との対話であるならば、原作を題材にした作品中で歌われるこの歌を歌うその時々において、まさに「今」「ここ」に生き、歌う人間としての返答を著書から迫られているように感ずる。21世紀の社会運動は暴力を許さず、一人の犠牲者も出さぬ運動でなければならない。またそうでなければ民衆の支持は得られないであろう。2015年も末を迎える今、著者にどう返歌をすれよいだろうか──。ユーゴーが望んだものは根本的には、社会の歪みに対して積極的に立ち上がり、運動の最中で己を陶冶し、弱き自分に打ち勝つ「自ら変革をとげる人間」であったと見たい。その意味で今この歌を歌う身としては、「弱き自分自身の奴隷になるまいと誓った民衆の歌──「It is the music of a people Who will not be slaves yourself!」と唄いあげたい。
アンドレ・レノレ(花田昌宣・斎藤悦則訳)『出る杭は打たれる フランス人労働司祭の日本人論』(岩波現代文庫、2002年)
零細企業の下請け労働者に、社会を1ミリでもいい方向にずらすことができるなんて、広告代理店の準備したキャッチコピーは決して認めない。しかし、真面目に生業に励む人間の純朴さに突破口はあるのではないか。10年以上労働者として同苦してきた労働司祭のルポルタージュは、襟を正させる。人間なめんなよ、と。

カレル・ヴァン・ウォルフレン(鈴木主税訳) 『人間を幸福にしない日本というシステム』(新潮OH文庫、2000年)
支配されることに従順であることが褒め称えられる日本社会は、「民は愚かに保て」という権力中枢の馴致と相乗するが、それでは人間は幸福になることは不可能だ。1994年の出版時、「説明責任」の欠如とそれを下支えする「シカタガナイ」というメンタリーを痛罵し、物議を醸したが、この問題に未だ日本社会は応答していない。

大熊由紀子 『恋するように、ボランティアを―優しき挑戦者たち』(ぶどう社、2008年)
「がまんでけへん」がボランティアの訳として最も素敵だと書く著者は、多くの現場に関わる人を紹介しつつ、内部告発こそ究極のボランティアだと説く。紹介されている「本来あるべき姿の組織においては、内部告発なんてあろうはずがないのです」との金沢大の内部告発者、打出さんの言葉は頂門の一針とも言うべき。

山口智美・斉藤正美・荻上チキ『社会運動の戸惑い フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動』(勁草書房、2012年)
 多感な青春時代に東西冷戦が崩壊し、いよいよ、私たちは、「為にする」イデオロギーから自由になり、中身で勝負できる時代になったんだと実感しました。1990年代以降、日本社会は、そうした国際的な潮流のなか、遅まきながらも負の連鎖を断ち切るためにさまざまな是正・社会改良を行ってきました。しかしその取り組みの末の現在はどうなったのでしょうか--。
 1999年の男女共同参画社会基本法成立以降、保守派のバックラッシュが相次ぎ、お互いを悪魔化する先鋭化した議論が、本来の趣旨とは離れた硬直化した対立を必然させました。
 本書は、2000年代のフェミニストと草の根保守の対立過程を詳細に分析することで、対話の不可能性を退けながら、未来を展望します。著者たちは、フェミニズムの立場に重点を置きながらも、真摯な取材・対話を切り結びました。軸足を置くことの自覚こそ、積極的な公正な態度ですものね。本書を読むことで、誤読とミスリーディングといった知性を軽視する態度を改め、誰もが参加していくこと「場」を作ることの必要性を痛感しました。
 私は草の根保守のいう近代日本の捏造した伝統を金科玉条の如く扱うつもりはありません。しかし、その虚偽を撃ちながら、一人ひとりの人間が尊重される社会へ向けて、積極的に関わっていきたいと思いました。思い返せば、冷戦の崩壊の時、未来はよくなると「思い」ました。しかし「思う」だけでは始まりませんよね。
 「戸惑い」を理解して「責任」を背負い前進していくこと。私は本書からその勇気を学びしました。「今がいい」なんて誰も思っていませんものね。人間を無効化する暴力と抗う連帯を、今こそ!